時代の流れに流されるのも、取り残されるのも嫌だが、逆らいたいことはある。たいそうな問題のことではない。パソコンの話である。 私が初めてパソコンを購入して使い始めたのは1997年、 Windows 95 のときだった。その頃と比べると今は、隔世の感、どころか、次元の違う段階になっていると思う。ワープロからパソコンに変わっただけでも、あまりに多くのことができるので感嘆した。使い勝手もぜんぜん違う。当時ワープロでは、いちいちフロッピーディスク(FD) を挿入して起動し、またFDに記録して使用を終えねばならなかった。時間もかかるし、記憶容量も最大1.44MBだった。それがパソコンではFDを入れる必要もなく、記憶は3000倍になった。/  それでも、ハードディスク(HD) はいっぱいになる。最初に買ったVAIOのは4GBだった。ここにさまざまな辞書をインストールした。まもなく、ヴァーチャルCDというソフトが誕生し、パソコンの中に架空のCDを作って、いちいちディスクを入れなくても、また同時に何冊でも、辞書が使えるようになった。私にとっては小さな革命だった。ただ、HDの容量を食う。そこで、このパソコンにもう1台4GBのHDを増設したい、と電気店に行った。98年当時の価格で4万以上した。ほしい、でも買えない。買おうか、何度も迷って結局買わなかった。/ それから三十年たって、4GBは小さなSDカードで千円もしない。64GBのチップさえ当たり前に使われている。技術の進化は、私の感覚では、人間生活の進化とは別次元の速度である。/ インターネットについても同様である。20世紀はまだまだわずかな情報しか得られなかった。ある本の翻訳のために、私は山川出版の『現代史』全37巻を揃えたが、今ここに記されている情報の多くは、ネットで調べることができる。しかも最新のものが。人物を調べるのも簡単だ。また、仏仏辞書の記述を読んでもなかなか理解できなかったものが、その語を画像検索すれば、たちどころにわかる。さらに、かつて一冊の原書を手に入れるために注文から入手まで半年はかかっていたものが、19世紀のテキストなら、今ではほぼフランス国立図書館ですぐ、しかもタダで入手しうる。想像だにできなかったことばかりである。なんてすごい時代になったのだろうと思う。/ ところが、進歩によってすべてが便利になるとは限らないのだった。OSは新しくなると操作法まで変わる。ワードはせっかく精通した機能が新しくなると以前のようには呼び出せなくなる。変化を熟知するには時間がかかる。トータルのパフォーマンスが向上しても、その一部しか使わない多くのユーザーにとっては、次々にバリアが作られて使いづらくなっている。そして一番困るのはOSの更新のために古いソフトが使えなくなることである。私にとって、様々な国語辞書、仏仏辞書、事典、地図のソフトが使えるか否かは、パソコンにおける生命線である。それを維持するために、私のメインパソコンはいつまでもVISTAから先には進めない。(2018年春)

 

 

 

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