2007.6.2  STAFF blog より

 私の友人 古江健太郎君は、1993年に本学を卒業して出版社に入社したが、同年8月に退社してフリーのライターとして活躍していた。
同年10月7日から8日にかけて、週刊プレイボーイの記者として北アルプス・立山周辺で「秘湯」の取材をしている中、悪天候によって遭難。翌9日に遺体で発見された。

 彼は、陸上部の選手でした。
 ラグビー部員ではありません。
 しかし我々の仲間(同志)でした。

 このシリーズ 『 自己証明 』 は、古江君が卒業するときに、自分の大学生活を振り返って残しておいた記録を紹介するものです。

 なぜ今、この 『 自己証明 』 をとりあげて紹介するかというと・・・・、
 それはこのブログの(シリーズの)最終回に説明させていただくこととします。

自 己 証 明

92年、夏。空が近いと思った。雲が手に届きそうなくらいだった。何も標高が高いからという理由だけではない。周りは山々に囲まれた静かな盆地で、喧騒は無数にあるグラウンドから聞こえる応援とセミの鳴声だけであった。
 上信越高原国立公園の西端。根子岳・四阿山の裾野に広がる標高1,300m、南北六km、東西四kmの盆地高原である長野県小県郡菅平高原は、ラグビーの合宿で有名である。私は流通経済大学ラグビー部の合宿を観る為に、初めて菅平に来たのだった。

 私が流通経済大学ラグビー部を意識し始めたのは、90年の秋のことだった。その頃の私はやっと大学生活にも慣れ、それと同時に毎日ただ単に日常がながれているだけのようで何か物足りなさも感じていた。
 その日私は最後の授業を終え、帰宅しようとしていた。そのとき、どこからともなく奇声のよおうなものがきこえてきた。
 声は構内より下手のグランドから発せられていた。グランドでは、きれいなカクテル光線に照らされた数十人の男達が、必死になって1つの楕円形のボールを追っていた。
 その中に私と同じ授業をうけている男の姿が見えた。
 あいつラグビー部だったのか、考えてみれば人並み外れたしていたっけ”
 それまでの私は、ラグビーといっても、テレビドラマで見る以外は、いわゆる早明戦や新日鉄釜石ぐらいしか知らなかった。
 私はそのときの練習の凄まじさに驚いた。人数が少なかった為かもしれないが、その練習は私には何か衝撃的なものだった。それを言葉でいってしまえば「一生懸命やっている」ただそれだけのことかもしれなかったが、私にはそれだけのこととは思えなかったのである。その後の帰宅途中はずっと、さっきの練習のことが頭から離れなかったほどだ。
 次の日、昨日のラグビー部員と校内でたまたま出会った。一瞬、躊躇したが、やはり話かけてみた。まず昨日練習を観た事を言い、そして次の試合がいつ、どこであるのかなどを訪ねてみた。すると彼は微笑みながらいった。

 

2007.6.12  STAFF blog より

 「今度の日曜日に大学でやるから、もしよかったら見にきてよ」
 彼の名前は松本匡祥(2年)、ポジションは左のロック。当時のラグビー部では非常に珍しい花園経験者の1人であった。その屈託のない物の言い方にすくわれ、ほんの軽い気持ちで観に行くことにした。

 90年10月7日、白鴎大学戦。
 生まれて初めてみるラグビーの試合。しかも目の前で行なわれている。私は心を揺さ振られた。普段は同じように教室で授業を受け、同じように学食でAランチを食べ、同じようにキャンパスを歩いている男がまるで別人に見えた。必死でボールを追い、戦う姿は美しくさえあった。それに比べ、自分は大学に入って一体なにをやっているのだろう。何ひとつ打ち込むものはなく、ただ怠慢に毎日を浪費し、ぼんやりと生きているだけだ。
 結局その試合は松本の健闘も虚しく、FWの力不足で11−30と敗れてしまったが、私は失望するどころか、何か15人のラガーマンに勇気のようなものを与えてもらい、幸せな気分で帰宅した。
 後日、私が校内の休憩室で休んでいると、3人の学生が流通経済大学のスポーツ状況についての話をしているのが聞こえた。その話は実に不愉快な話だった。ここの大学には強いスポーツがほとんどなく、野球と柔道がそこそこやる程度で、あとは推して知るべし。特にラグビー部は全然ダメでこの間も負けた。私はそういった結果だけをかえりみる物の言い方に、ひどく憤りを覚えずにはいられなかった。もう少しでその者の胸ぐらを掴んでこう言う所だった。
 「何も知らないくせに、偉そうな事を言うな。結果だけみて知ったような口利くな、ラグビー部だって一生懸命やっているんだ」と。
 確かにスポーツというものは結果がすべて、結果重視の傾向があるが、もしそれだけだとしたらひどく味気ないものになってしまうのではないだろうか。試合というものは勝利を目指してだれもが懸命になるものだが、それでも負けることがある。プロならば何がなんでもと、勝ちにこだわるのもいいかも知れないが、これはれっきとした学生スポーツである。負ける所からまた何か得るものもあるのではないだろうか。甘いといわれればそれまでであるが。
 同じことを考えている人が他にもいるのではないか、とふと思った。私の知らないところで、私と同じことを考えている人間がいるはずだ、と。それにプレイしている選手自身も、自分達のやっている事を正当にわかって欲しいと思っているはずである。
 そして私は、新聞というものに気が付いた。この大学にはいままで不思議な事に、大学新聞なるものが存在しなかったのである。
 私は自分で大学スポーツ新聞を作ろうと決意した。大学の事務局に掛け合い、学生課、体育局らに許可を得て、そしてラグビー部にも取材許可を快くもらい取材を開始した。
 練習に付き合って冬の8時すぎまでグラウンドに残ったり、荒木監督や上野コーチ、またマネージャーに話を聞いたりと、それなりに忙しかったが、私は大学生になって初めて充実感を感じた。どんなに忙しくても少しも辛くはなく、逆にラグビー部の人達の心の暖かさに触れることもできた。ラグビー部の練習を観に行く為に大学へ行く感じでさえあった。
 ラグビー部はその後、足利工業大戦に76−0、群馬大戦に22−0、日本歯科大戦に86−0とすべて完封勝ち。波にのって決勝トーナメントに進んだ。練習を観ていても選手達に気迫が感じられ、次の試合の重みをあらためて感じた。

 

2007.6.27  STAFF blog より

 90年11月11日。対新潟大学戦。
 序盤は流経大のペースだった。心配されたスクラムもなんとか互角に渡りあい、なんとか1トライをあげ、7−6とリードして前半を終えた。
 後半は相手のFWの突進力に負けてしまい、逆に7−12とリードを許す。流経大も残り5分から必死に反撃したものの、自ら相手ゴール前で反則を犯し、チャンスを潰してそのままノーサイド。
 その瞬間、選手はうなだれ、泣きだす者までいた。その光景は胸を熱くさせるものだった。そして私はその敗者達の姿を目にしっかりと焼き付け、ずっとこのラグビー部を追ってみよう、弱くなるかもしれないし、強くなるかもしれない、どうなるかわからないけど見届けてみたいと思った。
 それが90年の出来事であった。

 そして今日、初めてラグビーの合宿場所である菅平に来たのだった。早速流経大の練習グランドに行ってみた。
 すでに練習試合が始まっていた。自然芝のグランドではあるが、何試合も行なった為か芝はかなり荒れていて、砂塵が舞い上がり、選手のジャージーは汚れて泥だらけだった。試合はかなり荒れていた。選手同士がかなりエキサイトしすぎ、しばしばキャプテンが呼ばれ、レフェリーに注意を受けていた。
「ラグビーは人間同士が直接接触するスポーツだが、それに関していちいち腹をたててはいけない、悔しかったら試合で晴らせ」
 と試合後のミーティングで上野監督が話していた。その日の試合は、流経大のまったくいい所なしの負けゲームであったが、上野は試合内容より選手個人に反省を促したのである。
 ある流経大の選手が、
「負けている時に点差が離れていくとだんだん(ゲームに対しての集中力が)切れていくんですよ。だから相手に対して必要以上にエキサイトしてしまうんです」
 と話してくれた事を思い出した。
 それにしても選手の動きが悪いというか、いまひとつキレといったものが感じられなかった、と私は言ってみた。マネージャーの陰山雅義(4年)は、
「うーん、選手に疲労がたまっているのかもしれませんね」
 と心配げに答えた。

 今回の合宿は例年になくハードなもので、合宿日数も二倍近かったという。私が訪れたのは合宿7日目で、1日休養日を作ったものの、毎日朝は6時からの走りこみの後、そのままポジション別練習に入り、10時過ぎにやっと食事、そして休憩。午後は試合とハードトレーニングの連続。確かに疲れのピークかもしれない。
 そしてここ菅平の高度も多少関係があるだろう。普通に歩いている分には何も感じないが、ちょっと走ってみるとすぐに息苦しくなる。あらためてここの空気の薄さを感じるのだった。
 陰山にこれまでの夏合宿の戦績を見せてもらうと、7戦して2勝5敗とあまりいい成績とは言いがたい。その事を尋ねると、合宿中に怪我人が出た為にベストメンバーを組めなかった事、対戦相手を実力的に上の大学と組んだこと、そしてまだチームとしての軸がしっかりしていない事を理由として挙げていた。しかしその中にも収穫があり、関東リーグ戦グループ1部の東洋大学に僅差で勝つなど、それなりに手応えはあったようだ。
 考えてみれば、この陰山との付き合いも3年越しとなる。松本と同期でプレーヤーとして大学に入ったものの、結局2年生の時に先輩に説得されてマネージャーになったという。その時の気持ちは他人には計りしれないものがあるだろう。だからこそチームの事を一番に考え思い入れがあるのではないかと思った。

 

2007.7.8  STAFF blog より

 上野はこの日の選手同士の夜のミーティングを、いつものポジション別ではなく、学年別に分けさせた。おそらくここに来て選手一人一人に心の緩みが出始めている事を懸念してのことであろう。
 ラクビー部は90年までは荒木監督と上野コーチという体制で指導していたが、翌91年から荒木監督の転勤により、上野がコーチから監督になった。
 上野裕一は山梨の名門日川高時代に花園に2度出場し、日本体育大学ではポジションは主にスクラムハーフだった。しかし在学中に肩を痛めてしまい、公式戦出場や日本代表などという輝かしい経歴こそないものの、日体大のチームリーダーだったという。その後は日体大の大学院に進み、それと同時にラクビー部のヘッドコーチもこなした。日体大コーチ時代は、大学戦主権準優勝や対抗戦グループ優勝などにチームを導き、コーチとしての実績は素晴らしいものがある。
 その手腕を買われて、この流経大のコーチとして招かれたのである。しかし最初に大学に来た時は、あまりの遠さと淋しさですぐに帰りたくなったという。もちろん今となってはいい笑い話だが。
 翌日、早朝のグランドに出掛け、練習を見学した。試合に勝った瞬間の選手達の輝いた笑顔も好きだが、合同練習後に自主的に練習に打ち込んでいる姿を観るの好きである。こういった時こそ、選手がのびのびと自分らしさを取り戻す時なのであろう。

 その日の対戦相手は、東北福祉大学。東北地区では強豪チームの1つである。Bチーム(2軍)、Cチーム(3軍)は流経大が大差で勝って、いよいよAチーム(1軍)の登場。
 動きも昨日よりも心なしかよくなった流経大だが、力の差はいかんともしがたく、結果は大差の敗北であった。しかし、後半にはトライを返すなど、昨日より締まったゲーム運びには目を見張った。今期の活躍を期待しうる試合内容だった。
 予定の取材を終え、帰路に着く途中、私は今年のチームがどこまでいくのだろうか、私にどんな感動を与えてくれるのだろうかと、希望に胸を膨らませた。
 取材するきっかけとなった新聞はその後3号ほど発行して、学生にもちろん選手にも好評だった。新聞を励みにしているという選手は何人もいたし、学校全体で関心を持ちはじめている感じがした。大学には数多くの体育会系クラブがあり、そのどの部も頑張っているということが取材を進めるうちに伺えた。
 その中でなぜラグビー部にこだわって取材している理由というものを、私は、合宿に行くまでは明確にすることができなかった。
 しかし、合宿の練習を見学して初めて自分の気持ちに気が付いた。単にラグビー部の人達に憧れているのではなく、誰のためでもない自分自身のために必死に練習し、必死に戦う。そんな姿を見て、いつしか自分もそうなりたいとおもいを巡らし、ラグビー部の取材をする事によって少しでもそんな自分に近づくという願望があったのではないか。
 新聞作りにもっとも協力的であり、初めて練習を観た時に感じた一生懸命さのなかに、何か自分自身にも同じものがある事を、無意識に見出していたのかもしれない。
 それはあたかも何か懸命にやってみたいと思いながら、その何かが見つからず、暗中模索しもがいている自分の姿に、ラグビー部員を重ね見たかのように。ラグビー部は私そのものなのだ。毎年毎年変わるチームを観て、改めて自分に振り返って確かめてみたい。
 菅平ではもう夕方になるとガスが発生し涼しい秋の気配すらしたが、東京ではまだ夏の真っ盛りであることに驚き、あの何とも言えない草や芝の匂いとともに、よりいっそう菅平のことが遠い昔のように感じられた。

 

2007.7.18  STAFF blog より

 92年、秋。 9月に入ると本格的なラグビーシーズンが到来する。しかし、私はさまざまな使用の為にラグビー部の試合を観る事ができなかった。
 ラクビー部の試合をやっと観ることができたのは10月4日、場所は流通経済大学グランド、試合は北関東リーグの初戦と関東大学リーグ戦グループ3部Bの3戦目というダブルヘッダーであった。

 まず最初に北関東リーグ、対足利工業大学戦。
 まったくあぶなげない試合展開で、前半後半あわせて12トライの猛威をみせ、88−0と大差で勝った。フォワードが前に出てバックスがつなぐという理想的な展開で、反則も少なく、それが大量点に結びつくというナイスゲームだった。

 直後で関東リーグ戦グループの試合も始まった。
 これまでリーグ戦の試合は2戦して2勝。対産能大学戦は相手に攻撃らしい攻撃をさせずに102−0、続く千葉工業大学戦も79−11と圧勝してきた。
 このリーグ戦グループの方は91年から新規加盟したものである。加入している大学は全部で41大学。関東大学らラグビーのカテゴリーは大きく分けて2つあり、ひとつは早稲田大学や明治大学などの対戦グループ。もうひとつはこのリーグ戦グループ(注・対抗戦グループとリーグ戦グループ上位4校は交流試合を行なって、全国大学選手権に出場資格を得る)。
 1部には法政大学、大東文化大学、関東学院大学などがある。このリーグ戦グループは全部で5つに分けられ流経大は3部B、つまり上から4つめの所に所属していた。91年に一番下の3部Cから入れ替え戦で勝って、3部Bに上がってきたのである。
 そして3戦目、対駿河台大学戦も圧倒的な強さで90−0と勝ち3連勝を飾った。
 しかし、試合後に陰山からあまり嬉しくない情報を聞いてしまった。このまま全勝すれば、例年なら3部Aの最下位校と入れ替え戦を行なうはずだったのだが、リーグ戦再編成の為、各一部9校制が一校削られ8校になるという。そのため、一校ずつ繰り下がってきてしまい、入れ替え戦がただの順位決定戦になってしまうのだ。
 つまり今年はどんなに頑張っても、上には上がれないのである。それがシーズン当初に分かってしまったのだ。選手のやり場のない怒りが試合で爆発したのだろうか。私は選手たちの気持ちは痛いくらい・・・・・・(以下、原稿中断)

 

2007.8.2  STAFF blog より

 しかし、まだ流経大には目標が残っていた。その目標は夢でも憧れでもない、現実味のあるものである。
 流経大は北関東グループというものにも所属している。これは流通経済大学のある茨城県をはじめ、栃木県、群馬県、新潟県の四県から全10校で構成されているグループである。その10校をA・B 5校ずつ分けてリーグ戦を行い、上位2校による決勝トーナメント(A1位 vs B2位、B1位 vs A2位、そしてその勝者同士)が行なわれるのである。
 私が松本に勧められて初めて観た90年のあの試合は、リーグ戦の初戦で、白鴎大に敗れた試合と、Bグループの2位として準決勝に進出したものの、Aグループ1位の新潟大に敗れてしまった試合だったのである(ちなみにその年は新潟大が白鴎大を下して優勝している)。結局、90年は3位に終わった年だった。
 この北関東リーグ戦に優勝すると、南関東リーグ戦の優勝校と全国地区対抗戦の関東2区代表校の座を争うことになるのである。
 全国地区対抗戦という聞きなれない大会は、冬の大学選手権に出られない地区にある大学のために、全国で8つのブロックから代表校を集う公式戦である。かつてこの大会には日本体育大学、大阪体育大学、京都産業大学、関東学院大学など、いまでは大学選手権の常連校が出ていた、いわゆる大学ラグビー選手にとって、もうひとつの国立である。
 まずこの大会に出場するためには、北関東リーグ戦で優勝しなければならないのだが、ここ数年流経大はリーグ戦で6位、4位、そして90年の3位と確実に力をつけ、まさにチャンスを迎えていた。
 そして91年は上野が監督になって初めての年、またキャプテン風見順一(4年、フランカー)にとって最後の年だった。ぜひ北関東リーグ戦に優勝したいと私に語った。私も今年こそ「全国」へと期待を寄せていた。というのも去年のレギュラーメンバーには4年生が一人もいなかったからである。
 つまり今年のチームは、去年のレギュラーメンバーによって編成されていた。チームの主軸が卒業して弱体化するという不安とは、全く無関係だった。しかも新入生の中に即戦力として使える選手が何人かいれば、去年より強くなることはあっても、弱くなることは絶対にないのだ。
 学生スポーツの最大の特徴は、1年ごとに選手が入れ替わることだ。つまりどんなに凄い選手でも4年たつと自動的にいなくなってしまうのだ。ここが学生スポーツの難しさであり、楽しさでもある。

 91年、私は春のオープン戦から流経大を追っていた。上野は青山学院、早稲田、専修など強豪校に積極的に挑んでいった。
 この年はいろいろな出来事があった。今まで選手は大学周辺の共同アパートで生活していたが、ついにラグビー部専用の寮が完成し、ニュージーランドから二人の臨時コーチがついた。ラグビー部が大きく変わりつつあった。
最大のニュースは、女子マネージャーが誕生したことだろう。これまでは陰山ともう一人同期の坂口光義(3年)でマネージメントをしていたが、この年、西尾友美(1年)と寺尾美代(1年)という2人が、マネージャーとして入部してきたのだった。
 ラグビーといえばヤカンを持った女子マネージャーが印象的だが、流経大にはそれがいなかった。実務としてかなり雑用的なものが多くきつい仕事だと聞いていたので、なぜ入部したのか聞いてみた。
 まず、西尾はこの流経大の付属高校の出身で、そこでサッカー部のマネージャーをしていた。入学当初はマネージャーになるつもりは全くなかったという。しかしある日、授業中にラグビー部の選手が走っているのを遠くでみているうちに、なんとなく入部したという。
 寺尾の方は西尾よりかなり遅れて入部してきた。西尾と同じ付属校で、しかもラグビー部のマネージャーをしていたというから、付属校からの選手たちと同様に自然な成り行きで入ったのかと思ったが、実は5月頃までかなり悩んだという。マネージャーの辛さを知っているだけに、大学時代も、とは思えなかったらしい。しかし、彼女もやはり同級生が頑張っているのをみて入る決心をしたという。
 こうして91年は新体制でシーズンに入った。

 

2007.8.21  STAFF blog より

 まず、この年加入した関東リーグ戦のほうは、駿河台大学を84−0と下して、北関東リーグ戦に入った。第一戦の関東学園戦、風見はかなりリラックスしていた。あれだけ練習したのだから負けるはずがないと。結局、試合は32−0で勝った。
 しかしこの試合が風見にとって、最後のスタメンとなってしまったのだった。部員が65名と増え、キャプテンである風見までもが、レギュラーから外されてしまうほど、部内のレベルが急激に上がってきたのだった。
 風見はその後、主にリザーブとして登録されたが、ほとんど出場することがなかった。
そのことについて風見は、
「自分が出られないのはすごく悔しいし淋しいけど、でも自分の代わりに出ている選手が活躍して試合に勝つと嬉しくなる」
 と言った。
 その後、風見はキャプテンというより、部員と上野とのパイプのような役目を果たしていた。就任一年目というのは、ともすれば結果をすぐに出したがるあまり、部員と監督との間に溝が生じてしまう。そこを風見がうまくとり繕っている、そんな感じがした。また西尾や寺尾の心の支えとなり陰から部を盛り上げる役に徹していた。そんな風見の努力がむくわれた結果となった。
 第2戦、群馬大に40−3、第3戦、宇都宮大に31−0と連勝、第四戦の新潟大は前半に3点のリードを許したものの、後半で一気に逆転して17−10と開幕四連勝でリーグ戦を終えた。決勝トーナメントの準決勝、高崎経済大学戦は思ったより大差がつき45−9と圧勝した。
 そして流経大と白鴎大との決勝戦となった。白鴎大はここ数年勝てなかった大学だったので、部員には北関東リーグ優勝と、もうひとつ、打倒白鴎大という2つの目標があったのだった。

 91年11月17日。対白鴎大戦。
 前半、流経大はうまくバックスに展開し、2トライをあげるなど白鴎大を圧倒し12−12とリードしたが、後半に入ると、タックルがややあまくなりだし逆転点トライを許してしまう。何とかペナルティ−ゴールで3点を返すのがやっとだった。
 結局15−17でノーサイド。またしても白鴎大に敗れ全国に進むことが出来なかった。(ちなみに白鴎大はそのまま勝ち進み、全国地区対抗に初出場で決勝まで進み、そこで摂南大学に負けたものの、準優勝を飾った)。

 大きな目標を失ったものの、シーズンはまだ終わっていなかった。今季の最終戦は関東リーグ戦グループ3部Bの最下位校である麻布大学との入れ替え戦である。この試合、上野の計らいで風見がスタメンで出場した。
 試合は力の違いを見せ付けて、83−3と大勝。風見は卒業試合を自ら勝利で飾った。
 風見は、
「4年間いろいろあったけど、最後にリーグ戦に加入できたし、ほんと(ラグビーを)やっていてよかったなと思いますよ」
 と語ってくれた。
 そうして91年は、関東リーグ3部B入りという成績で幕を閉じた。大きな目標を据え置いたままで。

 

2007.9.3  STAFF blog より

 92年は関東リーグ戦と北関東リーグ戦の両方で全勝すると言う新たな目標を加え、絶好のスタートを切った。
 上野が監督になって選手はレベルの高いプレイを要求されたが、2年目の今年は菅平の夏合宿以来、着実に上野イズムが浸透してきていた。
 関東リーグ戦の方は順調に東京工業大学に44−3、横浜商科大学には今季最多の136−0、東京都立大戦71−8、横浜市立大学戦84−0と、8戦8勝で3部Bの優勝をはたした。

 一方、北関東リーグ戦の方は2戦目の対戦相手、日本大学歯科学科の棄権により不戦勝したのだが、逆に部内の緊張感に緩みが生じてしまい、それが第3戦の茨城大戦に出てしまった。
 後半に21−7とリードしたものの、10分すぎから茨城大の猛撃を食って、逆に21−24とリードされてしまった。終了まぎわにペナルティーキックで同点して試合終了。24−24とやっと引き分けにした試合だった。
 その年のキャプテンである松本は、負けなかったことに安堵していた。この試合流経大は1,2年中心のBチームで臨んだのだが、全体的に浮き足立ってしまい、若さが悪い方に出てしまったゲームだった。ここできちんと反省して、次の試合に活かすことが大事だと思った。

 

2007.9.24  STAFF blog より

 しかし、次の新潟大戦は前の試合の反省を活かせず、11−21と負けてしまった。トライをあげたものの、その後全くいい所なく敗れた。松本は試合に出場しながら、こんなはずじゃないと何度も思ったという。
 陰山は、
「どんなチームでも1年に1回くらいは、何をやってもかみ合わない試合がある。それが早いか遅いかの違いだけで。逆に考えればこの時期にこれほどまでに出来の悪いゲームをしてしまえば、もう後は良くなるはず」
と私に語ってくれた。
 予選リーグの敗戦とはいえ、部にとってショックを与えた。関東リーグ戦と北関東リーグ戦という公式戦があるのは、選手にとってみれば、試合が多いほど出場のチャンスが増えるので多くの部員に励みとなる。
 その反面、過密スケジュールと二つのチームをしっかり作らなければならないという難点も生じてきた。
 結局、流経大は予選Bリーグ2位で決勝トーナメントに進んだ。準決勝は白鴎大を敗ってAリーグ1位の高崎経済大と対戦することになり、全国に向けて1試合も落とせない流経大この試合からAチームが登場した。
 試合は前半から怒涛の攻撃で高崎経済大を圧倒。中村康広(4年、スタンドオフ)は点を取った割りにはミスが多い試合だった、と私に語ったものの、133−0と完封勝ちだった。
 中村はバイスキャプテン(副キャプテン)で、松本が出場しない試合などはキャプテンシーを発揮していた。私はこの試合あたりからチームとしてかなりまとまってきていると手ごたえを感じていた。そして決勝は因縁の白鴎大となった。

 92年11月15日、対白鴎大戦。
 前半10分まではお互いに何度か得点チャンスがあったものの、両チーム無得点でゲームは進んだ。15分、白鴎大の反則で得たペナルティーキックのチャンスを呉 昭彦(3年、右センター)が慎重に決めた。こういった大事な試合になるほど先取点が重視されてくる。
 過去、流経大はあまりプレースキッカーには恵まれてはいなかったので、この3点はフィフティーンに勢いを与えた。22分には再びペナルティーキックで3点、27分にはモールを押し込んでトライ(ゴール成功)。前半が終わって13−0とリード。
 しかし後半開始の10分間は、白鴎大が流経大陣内に深く攻め込んできた。9分にはペナルティーキックで3点を返して、13−3とした。
 流れが白鴎大に傾きかけた時に、中村が起死回生のドロップゴールで流れを引き戻した。この後、流経大は3年間の鬱墳を晴らすかのように2トライを上げ、終わってみれば30−8で完勝した。
 もっと接戦を予想していただけに拍子抜けだったが、中村が、
「うちの方が、勝とうという意識が強かった」
と語ったように、勝つんだという意識の元にプレーした差が、そのまま点差になったゲームだった。選手は白鴎大に勝った喜びはあるものの、まだこれは通過点にしか過ぎないと勝っても反省点を忘れなかった点にチームとしての成長を私はみた。
 全国まであと一勝としたが、相手がまだ対戦経験のない順天堂大学と決まったときに、何か得体の知れない一抹の不安を感じた。

 

2007.10.4  STAFF blog より

 92年11月29日、対順天堂大学戦。
 関東2区代表決定戦は南関東リーグを制した順天堂大学と対戦。私は前夜の雨で軟弱になっているグラウンドでの試合は、いかにミスを少なくし、相手のミスに付け込めるかが勝負と考えていた。
 試合会場の流通経済大学グラウンドに、一般学生が何人か応援に駆け付けているのを見て、私は3年前のことを思い出さずにはいられなかった。あの時学生は私一人だった。その後も学生で応援に来た者を、私は見たことがなかったのだ。それが自分の大学で行なう試合とはいえ、応援者が現れたことに来てくれたという感謝の気持ちで一杯であった。
 試合前、監督が選手全員を集めて論すよう一つ一つ注意事項を与え、最後に一声かけて気合を入れた。すると選手たちの顔が一瞬にして高揚し、戦う男の貌へと変身した。中には試合前の緊張が高まるあまり、泣き出す選手もいるという。私も今ではその気持ちがよくわかる。
 前半は流経大ペースで試合を運んだ。前半に3トライをあげ、17−0とリード。周りには白鴎大戦のように完勝ムードが漂ったりもしたが、私は楽観視していなかった。
 後半、流経大のリズムが少しずつ狂いだしているのが感じられた。勝ちを意識するあまりに気持ちが守りに入ってしまったのだ。9分、11分にトライを返されて17−12。流れは完全に順天堂大ペース。必死に守るも気負いすぎて反則を犯してしまう。18分にはペナルティーキックを与えてしまい、17−15とついに2点差まで詰め寄られた。自陣で反則すればペナルティーキック(3点)で逆転されてしまう。私は今の流経大に再逆転する力は残っていない、逃げきれなければ負けると思った。
 その3分後、今度は相手との接触で中村が負傷退場してしまった。つまり残りの20分近くをキャプテンなしでゲームを作らなければならなくなったのだ。私は正直言ってこの時点でもう負けたかと思った。しかし、選手たちは私の想像をはるかに越えて、逞しく育っていた。ゴール前に攻め込まれても慌てず処理し、必死で相手にタックルした。顔面や白色のジャージが泥で真っ黒になるのも構わず、必死になって防戦していた。私は時間の経過がこんなに遅いものだとは思いもよらなかった。
 そして遂に、何度目かのピンチを切り抜けた末のノーサイド。この瞬間、悲願の全国地区対抗戦出場を決めたのだった。
 しかし流経大の選手は喜ぶ気力はすでになく、ただ立っているだけだった。それに対して順天堂の選手はグラウンドに泣き崩れるものや仰向けに倒れこむ者など、それぞれに敗戦を受け止めていた。
 3年前の新潟大戦敗北の光景が思い浮かんだ。そして勝者は敗者のすべてを背負わなければ、それが勝った者たちの義務ではないのか。私はそう思わずにはいられなかった。

 

2007.10.25  STAFF blog より

 冬、12月の末にラグビー部の練習を見学した。
 流通経済大学は茨城県龍ケ崎市に25年前に開校した、比較的新しい大学である。大学へはJR常磐線の取手駅から2つ目の佐貫駅で下車し、スクールバスで行くか、関東鉄道龍ケ崎線の終点、龍ケ崎駅から徒歩で行く。
 大学は高台に位置し、周りは自然に囲まれ、とても静かだ。夜は市内の夜景が綺麗であるグラウンドにはナイターの設備が完備しており、普段は16時から18時ぐらいまで練習を行なっている。
 この季節は筑波山からの吹きおろしと地形の関係で、東京に比べて気温が2〜3度低いと言われ、つねに吐く息が真っ白の中で練習してきた。しかし今日の練習は全国へ向けての軽い調整だった。

 上野に全国に決まった時の気持ちや選手の状態、抱負などを聞くと、
「やっとスタートラインに立ったというぐらいですね。勝因?それは学校側の協力があって初めてできたこと。私の力なんて微々たるものだよ。(選手は)可もなく不可もなく、普通かな。全国大会では自然体でやりますよ。力以上のものは出せないからね。優勝?わからないなぁー。やってみないと」
 ときたるべき大会に向けて静かに語っていた。

 陰山は、
「クリスマスも正月も無いよ」
 とぼやくものの、この時期に忙しいのもマネージャー冥利につきると言わんばかりの顔で嬉しそうに話していた。
 関東リーグ戦順位決定戦の方は、文教大学に74−3と圧勝。順位を昨年の35位から27位と上げ、関東リーグ戦3部B3位という成績でシーズンを終了した。
 実力はすでに1部校と変わらないとはいうものの、まだ毎年入れ替え戦を通過しなければならない。来年以降が本当の勝負ではないだろうか。

 キャプテンの松本にも話を聞いてみた。彼は白鴎大戦からリザーブにまわり、全国でも出場が無いと言われていた。しかし、彼はそんな事をすこしも介さずに、この時期にラグビーが出来る事を素直に喜んでいた。
 ラグビー部員の多くはスポーツ推薦と呼ばれる特別な選抜で大学に入ってくるので、一般の学生は色眼鏡で見勝ちだが、彼らも学業と部活の両立に悩むし、試験前になれば必死になって勉強する。オフシーズンに入ると合宿費や遠征費を工面する為に、自分達でアルバイトもするという普通の学生生活を送っているのだ。つまり去年の今頃はアルバイトしていたのだという。
松本は、
「それが今年はこの時期までラグビーが出来る。本当に幸せだよ。全国に何百とある大学のラグビー部の中で、今もラグビーが出来るのは20校もない。その内の一つがうちなんだから最高だよね。全国は1回戦の勝ち方しだいだね。いい勝ち方して波にのりたい」
 と語ってくれたそんな松本に、去年の風見の姿がダブってみえた。

 選手たちの練習を見てもリラックスしていて、かなりいいムードが感じられた。
 流経大が強くなった理由はいくつかあるだろう。その内の一つが変な上下関係がないという点が挙げられる。この日も先輩後輩の分け隔てなく、ペナルティーキックが入る・入らないで賭けたり、先輩にじゃれてタックルしたりとファミリー的な感じがした。それが良いか悪いかは別にして、今のラグビー部にとってはかなりプラスになっていると思った。
 そしてそれ(強くなった原因)は、ラグビー部に歴史が特に無く、弱かったからではないだろうか。弱かったからこそ、ただ強くなるために練習してきたのだ。新たなる歴史は自分たちで切り開くかのように。戦力的には中村の怪我も全国大会までには回復するという。私は確かな感触を持って帰宅した。

 

2007.11.15  STAFF blog より

 93年。ラグビー部は1月1日に新幹線で名古屋へと移動した。名古屋の瑞穂ラグビー場で全国地区対抗戦が行なわれるからだ。
 この全国地区対抗戦は年末から年始にかけて行なわれる全国大学選手権に人気、実力ともに劣るものの、大学選手権が今年で30回目になるのに対して地区対抗戦の方は42回と、古くから全国規模の大会として大学ラグビー界の屋台骨を支えてきた大会なのだ。

 流通経済大学の1回戦の相手は古豪松山大学(中国・四国代表)。優勝こそないものの、出場22回は今回の出場校では2番目に多い大学である。
 私は初めて、会場に来て奇妙な感じがしたが、それはこの試合が有料試合である事に気が付いた。今までに見た流経大の試合会場は当番校のグランドだったので流経大か相手校のグランドを使っての試合が常だったのだ。入場料を払って流経大の試合を観るという行為に不思議な感じがした。またプログラムを購入したのも初めてであった。
 選手たちにとつては全国と名のつく試合も初めてなら、芝での公式戦も初めてだったに違いない。全てが初めてづくしだった1回戦では、かなり気負っていたと、のちに中村が語った。

 93年1月2日。対松山大学戦。
 アガったのでもないだろうが、観客数が私の予想を越えるほどの盛況だったために、呑まれたような感じで、気合が空回りしてしまい、前半、3本のペナルティーキックを決められ0−9とリードされた。前半終了直前にラックから和田義信(3年・プロップ)が走りこんでトライ。ゴールは成功しなかったものの、点を取っての折り返しに期待を後半につないだ。
 後半、開始早々にペナルティーキックで3点を返し、8−9と1点差にしたものの、それから一進一退が続いた。敵陣内で攻撃し、相手の反則からもらったペナルティーキックが何回かあったものの外してしまい、私はこのまま負けるのではという不吉な考えが頭をよぎった。中村は仲間を信じ、絶対勝つんだという気持ちで戦ったという。ノーサド直前に相手22Mライン中央から、呉がペナルティーゴールを決めた。11−9と逆転。
 そしてノーサイド。
 応援にきている部員たちも狂喜乱舞していた。まさに薄氷を踏む勝利だった。どんな状況になっても、決して勝利を諦めなかった流経大の粘り強さに感動した試合だった。

 

2007.11.26  STAFF blog より

 93年1月4日。対道都大学戦。
 準決勝は強力フォワードが武器の道都大学(北海道代表)。1回戦の反省がきちんと出来ているかどうかを決勝を前にした大事な試合である。流経大はいつもの白地に金色の3本線が入っているファーストジャージではなく、深紅のセカンドジャージで登場した。90年まではこちらがファーストジャージだったのだ。
 この試合、フォワード頑張りモール、ラックからトライを挙げ、さらに後半はバックスと一体となった連続攻撃で道都大を圧倒した。スピーディーな展開に中村が今季ベストゲームと呼んだ素晴らしい試合だった。後半にトライを奪われ、完封こそ逃したものの39−7と勝利。
 この日、流経大付属高校のラグビー部が、全国大会で初ベスト8進出を決めていた。ラグビー部に20人ほどはいる付属校出身者は、後輩の活躍に刺激されていた事だろう。
 今西誠(2年ナンバー8)もその1人だ。高校3年時に初めて県大会決勝に進んだが惨敗しただけに、自分の果たせなかった夢を果たしてくれたので、後輩に負けずに自分も頑張ろうと思ったという。流経大は今まではフォワードが弱いと言われていたが、ここまではよく耐えていると私は秘かに思っていた。果たして決勝でも耐え切れるのかそこが問題だと思っていた。

 

2007.12.3  STAFF blog より

 93年1月6日。対東北学院戦。
 いよいよ、あと一勝となった。しかし私は勝っても負けても最後の試合に、悔いの残らないようなゲームをして欲しかった。もちろん勝つに越したことはないと思うが、勝とうとするあまり、つまらない試合をしてほしくなかった。
 この日までラグビーが出来るのはここ瑞穂の2校と、同じ日に国立競技場で4万人の中でプレーする早稲田と法政だけである。
 観客は毎回減っている感じがするし、小旗もなければタレ幕もなく、華やかさには欠けるが、この瑞穂ラグビー場が逆に流経大には似合っている気がした。
 選手の動きは今季最高の動きだった。へんな気負いもなく、緊張はしていても、プレッシャーなどは感じられず上野の言った自然体で試合に臨んでいる感じがした。決勝の相手、東北学院はこの大会の常連で一昨年の優勝校である。東北ブロックでは、あの東北福祉大を全く相手にしなかった。流経大も菅平合宿の初日に対戦したものの、大差で敗戦していた。
 もっともあの頃は今季になって新しく変わったラグビーのルールを把握し、理解することをテーマとして試合に臨んでいたのであまり参考にはならないのではないのかと私は思った。チームというのは夏からシーズンに入ったあと、かなり成長するという。特に流経大の場合、全体的に若いので、伸びる時には急激に伸びるのではないかと思った。この全国大会で3人ほど怪我が出て、リザーブが出場したがスターティングメンバーと遜色のない動きだった。それほどチーム内での切磋琢磨が激しく、レベルが上がっている証拠だろう。
 問題は東北学院大と成長したあとの流経大、どちらがチームとしての成熟度が高いかということだろう。それは苦しい展開をくぐり抜けた試合でもいいし、ベストゲームを何試合くらい戦えたでもいいと思う。要するにチームとしてどれだけまとまった試合を経験してきたかという事だと思う。

 前半6分、流経大がペナルティーキックで先制すれば、11分には東北学院大がバックスに展開してトライを返す(ゴール成功、新ルールによりワントライ5点、ワンゴール2点)。
3−7という好ゲーム。17分、流経大が再びペナルティーキックを成功させて6−7と1点差に。19分には中村が早いパスで東北学院大のディフェンスを破り、バックスに展開してこの試合の初トライ。ゴールキックも決めて13−7とリードした。その後も31分と39分にトライを挙げ、前半を25−7とリードして終えた。
 後半は前半にリードすると気を抜いてタックルが甘くなるという悪いパターンで、徐々に詰め寄られてきた。東北学院大に14分、26分にトライされ25−19と6点差までに詰め寄られた。しかもフォワード戦に持ち込まれ、ずるずると東北学院大のペースになっていく。しかし自陣ゴール前までくると、あれ程押されていたフォワードが耐えられるようになった。
 中村は、
「うちのフォワードは、体は小さいけど、それなりに信頼できる」
と語っていた。また今西も、
「うちのフォワードは(自陣の)ゴール前になると絶対に押されないんです。ピンチになると集中力が違うからなぁー」
と胸をはって語っていた事を思い出した。
 ゴール前の何度となく続いたピンチを防いだ流経大は、東北学院大のミスから出たボールを蹴って一気に敵陣深く攻め込んでいった。そして東北学院大の反則を誘ってペナルティーキックを2度とも成功させて、40分ついにノーサイドの笛が高らかに鳴り響いた。
 その瞬間に15人の男たちは、思い思いに最高の表現法で喜びを全身にあらわしていた。私にはその時、選手が眩しいくらいに光輝いて観えた。
「うちはフォワードでも、バックスでもないタックルのチームです。だから勝因は全員で前に出て必死にタックルした事です」
と満面の笑みを浮かべ語ってくれた。
 応援の部員達も、来年には自分たちがこのフィールドを駆けめぐっている姿を想像したのだろう。はしゃいでた者が、やがて真剣な表情に変わっていった。

 

2007.12.10  STAFF blog より

 花火はこれで終わった、と上野は私に言った。初出場初優勝という快挙を成し遂げたにもかかわらず、上野は冷静に分析していた。今季の練習が無駄ではなく、また来年も新たに目標を立てて、それに向かっていい練習さえすれば必ず勝てると。淀むことなく、一歩一歩と確実に完成度の高いラグビーを目指すことを再確認するかのように。
 そして私にお礼を言ってくれた。その時、私は部関係者でもない自分が、頼まれたわけでもないのに3年間ラグビー部を追っかけていた事は、決して無駄ではなかったと誇りに思った。
 私は常々、結果は別として「スポーツとは平等の世界だ」と思っていた。しかし、現実はまったくの不平等な世界でもある。それでもスポーツを愛する者があとを絶たないのは、どんなに注目されてなくても、どんなにスポーツ紙で扱いが小さくても、それほどスポーツとは懐深く素晴らしいものではないかと改めて感じた。種目や大会規模によって注目度が異なるという事は何の妨げにもならないのである。

 この決勝は4年生にとって、学生生活最後の試合を松本はリザーブ席から少し寂しげな横顔で選手を観ていた。また陰山は目を真っ赤にして、選手1人1人と握手を交わしていた。そして中村は4年生として唯一出場し、自分の役目をきっちり果たしたという安堵感から笑顔がこぼれ、他の4年生に祝福をうけていた。
 私は選手や部員たちが羨ましく思った。こんな素晴らしい体験が出来る環境にいることを。
 また感謝もしなければならないと思った。こんなに至上な喜びに立ち会うことができたことを。そしてとうとうやったという、万感の思いでいっぱいだった。

 その時やっと解ったのだ。私がラグビー部を追っていたのは、ラグビー部そのものが私にとって大学時代の存在証明なのだと。
 私はおそらく、来年以降も流経大ラグビー部をみていくことになるだろう。しかし、それは大学時代に観つづけていたものとは、違うものなのかもしれない。大学時代の自己の存在証明としてのラグビー部は今、観終わったのだから。

 何年かの後、国立に真っ白いジャージを着たラガーマンが、綺麗な自然芝の上を駆け回るのを観た時に、ふと思い出すのだろう。あの頃の自分の姿を。

古江 健太郎


 このシリーズをはじめた6月に、古江君が夢に出てきました。
 夢の中で何を言っていたのか?何をしていたのか?思い出すことはできませんが、目が覚めたときにあの瑞穂ラグビー場で歓喜をあげる部員達が頭に浮かんだのです。

 そして私は手帳の12月24日欄に「古江へ国立競技場の招待券を届ける」と書き込みました。

 しかし・・・・叶いませんでした。

 ごめん古江、来年まで待っていてくれ。

 

2007.12.11  STAFF blog より

以下は、彼に宛てた手紙です。

古江くんへ

ラグビー部 監督 上野裕一

 ラグビーを強化するのあたり、流大に来たのが4年前、当時私は、日体大ラグビー部のヘッドコーチだった。
 日体大ラグビー部は、全国大学選手権で早大に敗れたものの、準優勝、その年テレビ局やスポーツ紙からよく取材を受けた。自慢話をしたいのではない。流大に来てから、1年目に突然研究室で取材を受けた。「先生のこと聞かせてください」「流大のラグビー部はどうですか」「強くなりますか?」「週何日くらい練習しますか?」等々。
 研究室へはいつもボーッとこぎたないセンスのない格好(その時はそう思った)で、無愛想に真っ直ぐ私の机のところへ来、ちょこんと首を動かすだけの挨拶をする(記者にはこういう輩が多い)。
「先生こんにちは」
「なんだ古江か、今日はなに?」
「先生、ぼくは流大でスポーツ新聞を作りたいんです」
「カネあんの?」
「ないです」
「そうかー、ま、いいか、おれんとこのコピー機使ってつくれよ!まてよ!?体育局、そう体育局の予算でつくっちゃえよ」
 それからというもの、彼は試合のあるたんびにラグビー場へちょくちょく顔を出すようになった。

 ある日、グランドでラグビーの練習を見ていると「あれー、どこかで見た奴だな、かれー誰だっけなー」と頭をひねる。しかも私は近眼。思い出せない。あれー、おかしいなあ、いつも新聞作っている奴?え、そんなはずないなー・・・・・? えっ、間違いない、古江だ!なんで奴がこんなところで、あんなかっこうして走ってんだ?
「おーい、古江!お前何やってんだ!」
「はい、先生、ぼく陸上部なんです」
「へえー、だけど、お前似合わないね。その格好」
そんなこんなで、陸上部の古江を発見したのです。

 ラグビー部は、夏合宿を長野県の菅平高原で行なう。
「先生!調子はどうですか?」
「なんだあー、お、お前、こんなところまで来たのか」
「えー、取材ですから」

 流大ラグビー部は、1月2日から6日まで全国地区対抗ラグビー選手権大会の本戦に出場することになった。大会会場は、名古屋市瑞穂ラグビー場である。
 大会当日、マネージャーがスタンドの方を見て「先生、古江が来てますよ」
 えー!?

 とうとう決勝、接戦の末、勝利を掴んだ。
「先生、やりましたねー優勝ですね!」
「お、サンキュー」
「先生、コメントありますか?」
「お前の思ったとおり書けよ」
「わかりました」
 はたして流大では、ラグビー部の記事が必要以上のスペースで掲載された号外が舞っていた。

   陸上部は、ラグビーグランドの外周を利用して、トレーニングをしている。
「おい陸上部、キャプテン!」
「はい!」
「お前たち、箱根駅伝でろよ!」
「え、先生、そんなことできるんですか?」
「しらねー、しらべてみれば・・・」
「あ、はい」

「先生、箱根駅伝の予選会でれます」
「そう」
「だけど、先生、人がいません」
「なんの人だ?」
「はい、出場資格を得るのに、陸上部員だけでは足りないんです」
「ふーん、じゃあ、ラグビー部の速い奴貸してやるよ」
「ほうとうですか」

 予選会、勿論予選落ち。
 参加したラグビー部員「先生、帰ってきました」
「どうだった!」
「だめですよ、まったく相手になりませんよー」
「それにしても、日体大の人の速いこと」
「お前たち、制限時間内にはいったの?」
「はい、ラグビー部で3人はいりました!」
「へぇーすごいじゃん」
「でも先生、陸上部で失格になった奴いましたよ」
「ふーん」
「そうそう菅平に来たやつですよ先生!」
「え、古江!? そうかー。ふーん。だけど、1時間遅れぐらいで帰ってきたんじゃなかったのかなあ?」
「そうそう、選手や大会の関係者、みな帰っちゃったのに奴、最後に帰ってきましたよ、途中でやめちゃえばいいのに!」
「そうかー」

 古江君の告別式に陰ながら参列させて頂きました。お父様の無念そうな表情が忘れられません。あまり目立たない子でしたが、非常にいい奴でした。流大ラグビー部の最大の理解者であり後援者でした。
「本当にありがとう、古江!」
 御冥福を心からお祈りいたします。そして誓います。古江が天国から「先生、やりましたネ。おめでとうございます」と言ってくれるようなラグビー部をつくることを。

1993年11月


古江くんへ

ラグビー部 OB 陰山雅義

 学生会体育局の新聞記者として、毎週土曜日にラグビー部の合宿寮に電話をかけてきて、翌日の試合には必ずと言っていい程、取材に来てくれていました。いいえ、取材と言うよりは応援に来てくれていました。
 水曜日くらいになると、私のところに「おい、できたぞ!」と試合を記事にした新聞(体育局発行)を持ってきてくれていました。その新聞には試合の結果だけでなく、彼から見た試合の批評も載っており、それを合宿寮に掲示すると皆、興味深く見ていたものでした。そして、その記事は部員にとって大きな励みにもなっておりました。
 私と彼とのつながりは、取材をする者と受ける者というつながりだけでしたが、試合に勝って彼が喜んでくれている姿は、私にとっても喜びでもありました。今後とも古江君に喜んでもらえるようなチーム作りをしていきたいと思っています。

1993年11月


古江さんへ

ラグビー部 主務 長沢征英

 今、ラグビーシーズン真最中。何かと神経をピリピリさせている。そう、去年の今頃は古江さんが取材に来て、現在の状況・目標などを事細かに聞いて、私達の気持ちを和ましてくれました。
 たしか、古江さんと最初に出会ったのは私が2年生の時だと思う。「物好きな人だな〜」と思っていたが、学内の新聞に古江さんの記事が載ると部員達は必死に呼んだ。私自身も取材を何度か受けたが、さすがにいい気分だった。私の生涯で取材を受けるのはそれが最初で最後かもしれない。夏の合宿には長野県菅平高原、冬の全国大会には愛知県名古屋市まで取材に来てくれた。まるでラグビー部員であるかのように。
 今でも古江さんが元気に私達のところに取材に来てくれそうな気がします。そして、私たちも天国の古江さんに試合結果を報告していきます。

1993年11月

シリーズ完