ランのノートルダム大聖堂 Notre-Dame de Laon (2010年)
ラン行きのローカル線(TER)は、平坦な大地をゆっくり進む。ピカルディーの風景は起伏がなく、だだっ広いだけで退屈だなー、と思っているうちに、朝が早かったせいか、少しまどろんだ。睡魔が去って、目があいて、窓の外に目をやると、景色が飛び込んできた。思わず飛び上がりそうになった。目覚めると丘があり、丘の上に大聖堂がそびえている。ずっと平坦な田園風景だったのに、いつのまにか丘が現れ、その上に大聖堂が聳えていたのである。
フランス国鉄には、日本のJRのような親切な車内放送などない。その上、日本の鉄道時刻表のような、ローカル線まで網羅した詳しい時刻表など売られていない。近頃は、駅のオフィスに、パンフレットのような、路線ごとの無料の時刻表が置かれているが、いちいち探すのも面倒で(パリは終着駅であるから種類も多く、また切らしていることもよくある)、列車がホームにいれば、ともかくこれ幸いと乗ってしまう。だから、各駅停車のローカル線に乗ると、私には、いつも降りる数分前まで、次が、目的の駅かどうかわからない。しかし、車窓からこれほど素晴らしい景色が飛び込んでくれば、それは目的の地に違いない。そうかランていうところはこういうところだったんだ、と感嘆しながら大聖堂を眺めた。大聖堂は、遠くに高くそびえながら、峻厳さより優しい気品を感じさせた。見る角度によって姿を変え、電車が進むにつれて、前に2本、中ほどに2本立つ高い塔と、中央の塔の、5つがすべて見える時もあれば、重なって4つのときも3つのときもあり、様々に姿を変えた。しかし、どの大聖堂の容姿もとてもエレガントに思われた。
駅前から見上げる大聖堂。ここからだと、塔は三本に見える。また、あまり高さを感じさせない。しかし、電車が駅に入る前の、田園から眺める大聖堂は、高く、気高く、美しく見える。それは、昔の人々がいつも眺めていた大聖堂の姿である。
丘の上からの景色。見渡す限り平坦な地平が続く。この平坦な大地を進んできて、不意にランの丘とそこにそびえる大聖堂が目に飛び込んできたのである。その一瞬の驚きと感動は、旅行の醍醐味といえるものだと思う。
ランは、かつて、西フランク王国の都だった。
現在われわれが「ヨーロッパ」と呼ぶ地域の過半を統一し広大なフランク王国を建てたのはシャルルマーニュ(カール大帝)だが、彼の王国は息子のルイ1世(ルードヴィッヒ1世)の代しかもたず、その死後、王国はヴェルダン条約によって三つに分裂した。いまのフランスの大部分に当たる西フランクを相続したのはルイ1世の末息子シャルル2世(カール2世)である。シャルル2世は、その後長兄のロタール(皇帝位と中部フランクを相続)が死ぬと、三男の兄ルードヴィッヒ2世(東フランク王)と謀ってメルセン条約を結ばせ、西フランクの所領を大きく拡大させた。往時のランは、その王国の首都だったのである。
当時、丘の上には宮廷人や聖職者たちの住まいが連なり、また彼らを得意先とする商人たちの街ができて、さぞ賑わっていたことだろう。丘の上の町と丘の下のどこまでも続く平野とは、まったく別世界のようだったろう。まさにランからは、丘から睥睨する華麗な王侯貴族たちと恐れと憧れをもって丘を見上げる貧しい農民たち、という、とても鮮やかな中世のイメージがわきあがる。
ランの大聖堂は、12世紀、パリのノートルダム大聖堂やシャルトル大聖堂の左塔再建に先んじて建立された。しかも、この二つの大聖堂の手本にもなったという。この大聖堂はゴシック様式としては装飾が少ない。その分そっけなく見えるかもしれない。しかし、塔を飾る柱の組み合わせは大変ユニークで、簡素ながらバロックを一部先取りしているような華麗さがある。アーチが半円でとがっていないのは、ロマネスクからゴシックへの過渡的スタイルで初期ゴシックの特徴らしい。しかし、むしろ盛期ゴシックよりも軽やかさと優雅さを感じるのは、私だけだろうか。
上は大聖堂の内部である。椅子が祭壇の前にかたまって並べられている。後ろには、いまはただ、大きな空間が広がるだけとなっている。13世紀には、内陣が狭くなって改築された歴史を持つのに、である。大聖堂へ通ずる町のメインストリートも人通りが少ない(下)。権力が移り、商業や産業が衰退し、交通の流れも変わって、時代と共に、ランは歴史の後ろへ後ろへと押しやられている。その町に来て、私はそういう町の持つ魅力を心から享受させてもらっている。誰もが訪れる観光地にはない、着古してくたびれた着物のそこここに光る趣味のよさやしつらえのよさに似た、栄光の過去を持つ町の、しかし今は忘れられてしまった町の、上等で控えめな魅力がここにはある。
左が大聖堂に通じる町のメインストリート(参道に当たる)。右はメインストリートの出発点となるランの市庁舎。
途中にパティスリーがあったので、大好きなオレンジの皮をチョコレートで包んだ菓子(オランジェット)を買った。量り売り、というので最小単位にしたが、それでも信じられないほどたくさん来た。パリの値段の半分以下だと思う。こういうのも、小さな喜びで、この町に対する愛着につながる。
中央の3つの塔
大聖堂の後ろに回るとこのような景色となる。ここからだと、5つの塔すべてが何とか視認できる。(最後尾の小さな2本の塔も入れると7つになる)
大聖堂の平面図。赤い四角が塔の部分。左が正面、右が後陣。