ナントの中心街にあるロワイヤル広場 (2005年)
ナントは、かつてブルターニュ公国の首都であった。封建時代、婚姻によってフランス領からイギリス領になったこともあり、この大きな領土の帰属をめぐってブルターニュ公家、英仏両王家は、さまざまなパワーゲームを展開した。フランスのものとなってからも、ブルターニュは独立の気風が強く、絶対王政下で地方長官を置くのが最も遅れている。
フランスで最も大きな書店フナック Fnac のナント支店。裁判所のような建物である。
ブルターニュ公の居城だったシャトー・デュカル(「公の城」という意味)
シャトー・デュカルの正面。あいにく修復中で全貌を見ることも城内に入ることもでなかった。
シャトー・デュカルの隣にサン・ピエール・エ・サン・ポール教会がある。こちらも外壁は修復中であった。
この教会は、ナントで最も由緒ある教会だが、不幸にして火災に遭っている。その被害から復旧した結果なのか、本来の歴史に比して内陣はまったく黒ずんでおらず、たいへん明るかった。
教会の戸口の上に浮き彫りされたブルターニュ公家の紋章。
フランソワ2世とマルグリット・ドゥ・フォワの墓。
フランス・ルネッサンスの有名な国王にフランソワ1世がいるので、フランソワ2世と聞くと、ついその後の国王と思ってしまいがちだが、この墓の主は、最後のブルターニュ公国の当主と妃で、国王・王妃ではない。しかし、彼らの娘は二人のフランス国王と結婚したアンヌ・ドゥ・ブルターニュであり、この結婚によって大領地ブルターニュがフランスに帰属した。
アンヌ・ドゥ・ブルターニュは最初オーストリア・ハプスブルク家に嫁ぐはずであった。しかし、フランス王家の横槍によってその結婚は無効となり、シャルル8世と結婚した。ところが、シャルル8世とアンヌ・ドゥ・ブルターニュとの間には子供が生まれず、このままではブルターニュの帰属がまたどうなるか分からない。そこで、即位したフランス国王ルイ12世は亡王の未亡人と続けて結婚、ということになった。二人の国王を夫に持ったのである。いかにフランスがブルターニュの地を得るために必死であったかがわかる。
さて、この墓(1507年)は、そのアンヌ・ドゥ・ブルターニュがミシェル・コロンブ Michel Colombe に注文して作らせたものである。フランス・ルネッサンス期彫刻の傑作とされる。四隅に立つのは、カトリックの4つの枢要の徳を表す像で、右隅奥の像には顔が二つある。こちらに向いているのは老人の顔だが、反対方向は若い娘の顔になっている。過去と未来を見る「賢明(prudence)の徳」を表すらしい。
実は、私は、不勉強で、教会に入るまで、そこに何があるのかまったく知らなかった。しかし、門扉をくぐって内部に入り、誰もいないガランとした堂内を、祭壇へ向かって壁面に眼を注ぎながら側廊を歩いて行く途上で不意にこの石棺彫刻に遭遇したとき、誰が見ても驚嘆する完成度の高さから、これは並みのものではないとすぐに分かった。硬い大理石を丁寧に掘り込んで、ガラスのようにぴかぴかに磨いてある。加工精度の高さだけでも圧倒的な技術である。しかも、その彫刻は、イタリアルネッサンスの明透な精神性とは違う、北方ルネッサンス特有の、写実よりもむしろある種の宗教的感性による象徴表現に重きを置いたような威厳と神秘性を感じさせた。
旅行中は実にいろいろなものを見る。名所旧跡を訪ね歩くわけであるから、毎日第一級の建造物を見、第一級の絵画や彫刻と対面する。初めて見るものに感心し、感動し、充実した気持ちになってそこを去る。それが何日も続くと、やはり名高い傑作も、たいてい記憶の河をゆっくり流れ過ぎて、はるか遠くの小さな姿となり、やがては忘却の淵に沈んでゆく。帰国後に、なお、気になってすぐ調べてみようという気の起こるものなど、きわめてまれである。しかし、このミシェル・コロンブ の彫刻は、そういう行動に駆り立てた、私にとっては驚きの出会いだった。いったい誰のどういう作品なんだ、それがわかるまで仕事をやり残したようなすっきりしない気分だった。それがようやく終わったのだった。
おそらく名もない職人によって彫られたこの聖家族の像は、中世の素朴で単純な美と温かさを感じさせる。私は、これを見て、ふと、法隆寺の百済観音を想起した。おそらく、この像も火災の被害を受けたのだろう。塗られている金箔の輝きが、近年の修復を証しているように思われた。