ナンシーのスタニスラス広場 La Place Stanislas de Nancy  (2010年)

 ロレーヌの歴史はたいへん入り組んでいて、概要を理解し覚えるのは並大抵ではない。しかし、ロレーヌの歴史を知ると、ロレーヌを通してヨーロッパとはどういうところか何となく分かってくる気がする。

 ナンシーのこの美しい広場を建設したのは、ロレーヌ公スタニスラスである。しかし、彼は、ロレーヌ公になる前に、二度にわたって、つかのまだが、ポーランド・リトアニア共和国の国王だった。最初は、ポーランドをめぐってロシアと敵対していたスウェーデンに担がれての、二度目はフランスに担がれての、要は、大国間の政略に翻弄された実力なき国王だった。

 フランスがスタニスラスを国王の座につけようとしたのは、彼の娘マリーがフランス国王ルイ15世の妃になっていたからである。時のポーランド国王アウグスト2世が死去したのを機に、フランスは力で彼を復位させた。しかし、ロシアとオーストリアがこれに反発して戦争となり、地元に強固な基盤を持っていなかったスタニスラスは、ロシア軍の包囲の前に敗れて、結局再び退位を余儀なくされた。

 さて、そのとき、とはつまり、フランスが支援したスタニスラフが国王の座から転落して彼の去就をどうするか難儀していたときだが、ロレーヌ(ロートリンゲン)はフランスの支配下にあったのではない。ロレーヌは13世紀まで神聖ローマ帝国のものであった。だが、フランスが占領して事実上わがものとし、その後再び神聖ローマ帝国に返され、以後神聖ローマの領邦となっていた。当時、ロレーヌを治めていたのは、フランソワ=ステファンヌ François-Stéphane (フランツ=ステファン Franz-Stephan)で、彼の祖父はルイ14世の弟オルレアン公フィリップであるから、フランス王家とは親戚筋の名門であった。そのフランソワ=ステファンヌ が、当時としてはめずらしく、又従妹で後にあの高名な女帝となるマリア=テレジアと恋愛し、婚約した。フランスはこの結婚に難癖をつけ、それを認める代償として、ロレーヌとトスカーナ(イタリア)の交換をフランソワ=ステファンヌ に要求し、承諾させた。

 かくして、1736年フランソワ=ステファンヌ がオーストリア皇女と結婚すると、彼はロレーヌ公からトスカーナ大公となり、同時に、ロレーヌ公の座が空いた。そこにスタニスラスを一代限りの条件で就けたのである。その後ロレーヌは、彼の死によってフランスのものとなり、さらにのちにはフランスは普仏戦争でプロシアに敗れてアルザスとともに東半分がドイツの領土となり、再び第1次大戦でドイツが敗れるとフランスのものになった。代々ここに住む人間は変わらずとも、帰属はコロコロ変わったのである。しかし、これはロレーヌに特別見られることではなく、ヨーロッパの大半は大なり小なりこうである。民族も習慣も言語も違う。だがそれによって国があるのではなく、支配者によって国がある。支配者は婚姻や相続や戦争によってしばしば変転する。今日に至ってEUができるのは当然ではなかろうか。

   

 スタニスラス広場からロレーヌ公宮殿 Palais ducal に抜ける門

  

 左はロレーヌ公宮殿。現在、歴史博物館になっている。右は、宮殿の裏手の道を進むと現れる城門。

 夕暮れのスタニスラス広場

 ナンシーはアール・ヌーボーの町として有名である。エミール・ガレやドーム兄弟がここに工房を構え、現代にいたっても追従を許さない数多くのガラス工芸品を世に送り出した。その過去の痕跡は今も残っている。以下はナンシーの街角で見かけたアール・ヌーボー。

   

 左は商工会議所の入り口、右は農業銀行の支店。

   

 左は郵便局の入り口。むしろアール・デコに近いかもしれない。右はある都市銀行の支店に見られるマンサール(屋根裏部屋の窓)のアールヌ−ボー。

   

 左はナンシー派美術館に行く途中で出会った医師の家。右はエミール・ガレの旧邸だったナンシー派美術館(私立)。ナンシー派美術館では、おもにガレのガラス工芸以外のアールヌーボー(家具が中心)を見ることができる。ただし、街から少々遠い上に、小さな美術館で、展示されている作品の数は多くない。ナンシーにはもう一つ、市立のナンシー美術館があり(スタニスラス広場)、こちらの地下にはドーム兄弟の寄贈コレクションがある。かなりの作品数があり、アールヌーボーのガラスを見るなら、断然ナンシー美術館である。ただ、ガレのものがないのが残念。

   市立美術館には、アールヌーボーのガラス器ばかりでなく、中世から現代までの様々な絵画・彫刻が展示されている。展示面積においては、むしろ、こちらがメインである。その中で、とくに私の印象に残ったのは、階段ホールの広い空間に、宙に浮くように展示されていた天使の像だった。おそらく中世のもので、ところどころに顔料が残っていることから、かつては鮮やかな彩色がなされていた、と想像される。等身大よりやや大きく、穏やかに澄みわたった気品に満ちた顔で、深い感動を覚えた。