カルカッソンヌの正面入り口 (2005年)

 カルカッソンヌの町は、城壁に囲まれた丘の上の「シテ」と呼ばれる部分と、ふもとを流れるオード川を中心に広がる部分とに二分される。シテは、1997年「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」として、世界遺産に登録された。

  中世、南仏には、カタリ派と呼ばれる異端的なキリスト教が広まった。厳しい戒律に従って心身を律し、清浄な生活を送る信者が多く出たことから、尊敬を集め、大流行したらしい。これに対して、1181年、ローマ教皇はフランス王に命じて十字軍を差し向ける。史上名高い「血塗られた」アルビジョワ十字軍である。カルカッソンヌは、トゥールーズ伯からフランス王の手に落ちて以来、そのカタリ派攻撃の拠点となった。

 カルカッソンヌの城塞を最初に建設したのはローマ帝国であった。フランスがローマの属州ガリアの時代である。そのローマ帝国(西)が滅亡すると、カルカッソンヌは西ゴート王国の、次いでムスリムの手に落ち、さらにフランク王国のものとなり、封建時代に入って上述のように最終的にはフランス王のものとなった。現在なおローマ帝国以来の塔と城壁は残っているが、シテの大部分が造られたのは、11世紀から13世紀にかけてのこの封建時代である。その後、シテは、一帯がフランス王の完全な支配下におかれたことにより、城塞としての軍事的意味が失われ、徐々に捨てられて、やがて荒廃していった。城壁も塔も、ローマのコロセウムのように、建材を取るために破壊されたり、歳月によって自然崩壊したりして、むしろ城址といったほうがいいような有様となっていった。それを現在の姿に復元したのは19世紀の建築家ヴィオレ・ル・デュク(1814-79)である。いまでは、彼の修復のやり方は、様様な批判の的となっている。例えば、城壁の各所に配された塔のとんがり屋根は彼が載せたもので、北フランスの様式であって中世南仏のものではない。しかし、ヴィオレ・ル・デュクが、中世の建造物に対して、当時のレベルにおいて優れた知識と、愛と熱意とを持っていたことは疑う余地がない。もしヴィオレ・ル・デュクがいなければ、城砦都市カルカッソンヌが、これほど昔の面影を残し、世界的に有名になったか、きわめて疑わしい。

 ヴィオレ・ル・デュクは、パリのノートルダム寺院の修復も手がけている。19世紀まで、ノートルダムの周りは、ユゴーが『ノートルダムのせむし男』で描いていたような貧民窟で、正面の広場のあたりには、きわめて粗末な、家とは呼べないような家が密集していたらしい。しかも、フランス革命では、教会の壁や正面大扉のまわりを飾っていた石造彫刻が、いくつも破壊された。あたかも打ち捨てられた廃寺の如き、すさんだ様相を呈していたと想像される。ヴィオレ・ル・デュクは、これら人為や時によって損壊を受けた歴史的建造物を、彼流に最善と思われる方法で修復した。

 しかし、現代では、どこかを変えたり何かを加えたりするような修復は破壊と同じだ、と判定される。碩学の遺跡の恩人が、浅学の破壊者に変わってしまう。たしかに、原状は最重視されねばならない。わずかな変更が全体の調和に重大な結果をもたらすこともあるだろう。だが、現代の学問と技術のレヴェルでその功罪を問うのは、少々酷ではあるまいか。そもそも、放置できない状況が眼前にある、と痛切に感じうる精神の持主が現れたことそのものが、人類にとって幸運ではなかったか。実現可能な望ましい修復とは何か、あらゆるものは時の変化から逃れられない以上、いかにしても原状は変化する、それが自然の理である。同じく、修復の理念も、やはり時代とともに変化する。われわれにとって、東大寺も大仏も天平時代のものではないが天平時代のものである。その言い方に倣えば、カルカッソンヌは中世そのものではないが中世である。原状のままでないのは残念なことだが、溶けて変形した大仏が野ざらしになっているより再建がはるかにいいように、田園の廃墟より今に残る中世の城砦都市のほうがはるかにいいのである。東大寺にしろカルカッソンヌにしろ、千年を生きるものにとっては、再建や修復もまた歴史の一部となる。長い過去が、人と共に、途絶することなく連綿と今に伝わり、生き続けるということ、そこにこそ最大の文化的価値があるのではなかろうか。

 さて、ル・デュクの情熱を後押ししたのは、19世紀のロマン主義であった。ロマン主義は文学や絵画をとおして、中世趣味や東洋趣味を大いに流行させた。彼の最大の支援者の一人は作家で官僚でもあったメリメであり、また精神の上で大きな支えとなったのは、詩人で作家で政治家でもあったユゴーといわれている。

 門を飾る石像の下に(おそらくカルカッソンヌの名の由来となった女領主カルカスの像)、世界遺産であることを示すプラークが貼られている。

 一番外側の城壁

 二つ目の城壁

 外側の城壁から見るふもとのカルカッソンヌの町

 正面入り口が田園を向いて門を開けているのに対し、この裏正面は町に向かって小さな門を開けている。

 裏正面に当たるこの辺りの内側城壁は大変高い。5階建ビルの高さくらいはありそうである。

 内側の城壁のまた内側の、いわば本丸にあたる部分は、さらに新たな堀と城壁に囲まれている。

 城内には狭い通路の両側に商店やホテルが並び、大変にぎやかである。

 教会(本丸近く)の隣りにこんなものを見つけた。「小学校博物館」と机に貼られている(城内に小学校がある)。出入り自由である。中には子供たちの絵などが展示されていた。文化祭のようなものなのだろう。日本の、色紙で鎖を作ったり花を作ったりして飾るスタイルと全然違うから、新鮮な驚きを受けた。

 東側の正面入口に対して90度の角度に当たる南側から撮ったシテ

 西側の町に面したシテ

 裏正面の望遠撮影

 ふもとを流れるオード川