エーグ・モルトの城門 (2010年)
歴史地図で12世紀から13世紀初め頃のフランス国王領(紫色)を見ると、これしかないの、と、意外の感に打たれる。この、パリ周辺にしかなかったわずかな国王領を、倍以上にも拡大したのが フィリップ・オーギュスト(フィリップ2世)である(薄紫色)。そして、それを事実上引き継いだのが、この町の主人公サン・ルイ王(聖ルイ、ルイ9世)だが、まだまだフランス国王にふさわしい領地と誇るには程遠い。(二人の王の間のルイ8世は在位3年のみ)
<12世紀から13世紀の歴史地図 >
さて、そのサン・ルイ王は、大変信心深い冒険家で、周囲の反対を押し切って、自ら手勢を率いて第7回十字軍を発進させる決断を下した。しかし、悲しいかな、歴史地図で見てのとおり、地中海へ船出する港を持っていない。このままでは、トゥールーズ伯など、臣下の持つ港で十字軍を結成して船出するしかないが、それでは王のプライドが許さない。そこで、1240年、修道院の領地であったこの地を王の権威にものを言わせて譲与させ、街を作って商人たちを減税策などによって呼び集め、さらに南仏における軍事的拠点とするために周囲を城壁で囲って堅牢な小軍都にした。こうして、それまでごく小さな漁村でしかなかった集落が、王の遠征と勢力拡大のための戦略都市に変貌した。
エーグ・モルトの「エーグaigues」は古語で「水」、「モルト mortes」は、「死んだ」という動詞の過去分詞からできた形容詞である。そして「死んだ水 aigues mortes」とは、流れが阻まれて「溜まった水」、「淀んだ水」を意味する。確かに一帯はカマルグに似た湿地帯で、水に動きがない。この自然からついた町の名は、しかし実に予言的だった。かつて港だったこの町にはやがて徐々に砂が堆積して、港としての用が果たせなくなるからである。港が使えなければ、経済的にも戦略的にも重要性は格段に薄れ、当然人は去り、忘れられてゆく。かくして、町が「死んだ」わけである。だが、そのおかげで一つの時代がタイムカプセルのようにここに封じ込められることになった。
ヨーローッパには、他にもこうした「死んだ町」がある。その美しさと富裕さから、代表格はベルギーのブリュージュだろう。ブリュージュは、いまでは世界中から観光客を集め、大いににぎわっている。だが、百年ほど前のローデンバックの小説『死都ブリュージュ』から感じる、静寂の中に物憂く沈んだ雰囲気は、まさにこのエーグ・モルトの雰囲気だった。もちろん、いまでも人々の日常の営みがあり、街は生きている。けれども、観光地として大勢の人を呼び寄せるには力足らずのせいか、シーズンから外れると通りに人影はまばらで、2月末、まるで廃墟を歩いているようだった。東西南北の通りを往復し、城壁の上を一周したが、1時間あまりの間に出会った人は数えるほどだった。
町の外側から見た城壁
城壁に登るとこんな具合。下は城壁の東西の門を結ぶ通り・・・上にも下にも、誰もいない。
エーグ・モルト博物館の庭
城壁に登るためには、博物館に入らなければならない。博物館の展示品はあまりないので、事実上、城壁が博物館の展示物である。
サン・ルイ王の像