レ・アール。地下中心部の青空広場。 (2005年)

  レ・アールには、かつてパリの中央市場があった。市場の周囲は、狭い通りで、古い建物がならび、暗く、不潔だったが、庶民の活気には溢れていた。しかし、この狭い通りを通って、人々は、毎日、市場まで物資を運び入れなければならない。また、運び出さなければならない。まだ、馬車や荷車の時代から、レ・アールでは、連日、交通渋滞が起こり、我慢の限界に達した人々の怒号が、日常的に飛び交っていた、と、ものの本で読んだ。

 私が初めてパリに来たとき、レ・アールは、地区全体が工事中で立ち入り禁止だった。それが帰国までずーと続いていた。そのため、私の頭の中のパリの地図には、中心部にすっぽり空白があった。それが、こんど、30年間ぶりに埋まった。

 中央市場は、パリの郊外に移転し、跡地に大きなショッピングモールが造られたことは、早くから知っていた。非常に近代的な有様を写真で見て、さぞ大勢の人々でにぎわっているのだろうと想像していた。しかし、来てみるとそうでもない。ちょっと拍子抜けし、半日して、いろいろほかのことなど想起しながら思い巡らせてみて、これは、やはり、フランス文化の結果なのかもしれない、と考えた。

 パリの街角には、実に様々な店が溢れている。日本ではとうにつぶれていそうな店、面白いけれどこのようなものが生活の糧になるほど売れるものだろうか、と心配になるような店、ともかく、ごく普通の食料品店や雑貨店を含め、効率競争ではとっくに淘汰されているに違いない実に様々の店が、立派に営業を続けている。それは、パリのみならず、フランスの地方都市においてもそうである。

 日本では、地方の町に行くと、かつての商店街の過半は「シャッター通り」になっている。一方、駅近辺には、たいてい大きなスーパーができている。スーパーの建物は、日本中、どこに行っても似たりよったりで、いまや地方の駅近辺の風景は規格品のようになった。

 地方ばかりではない。大都会でも、古い住宅街に近い商店街は、シャッター街である。一方、大きな道沿いには、必ずと言っていいほど大規模店ができている。日曜日、ショッピングモールは大変である。車を駐車場に入れるために大渋滞となる。おかげで、その道を利用しなければならない無関係の人々もあおり食らって、大迷惑。ところが、どうしよもない。それは自分たちが選択したことでもあるからだ。

 アメリカ的競争原理は正義か、フェアーであるという点に関しては、正義であろう。しかし、人々が共に生きていくことは、「競争の正義」以上に重要なこともある。フランスでは、人が、自由に、自立して、健康に、生きていけること、が最大の正義である。現代日本ではほとんど見られなくなったストライキが、フランスでは実にしばしばある。農民もストをするし、商店のオヤジだってストをする。常に、この生活を守るためにである。自分の生存権の防衛に敏感な人は、人の権利に対しても理解が及ぶ。フランス人は、概して、ストは迷惑でやはり嫌にきまっているが、寛大である。

 競争社会は、自己責任の世界でもある。競争に敗れることは、自らに怠慢や無能力や判断の誤りがあった証拠である、という立場である。競争社会では、敗れることで多くのものを失い、それによって責任を取ったことにもなる。

 しかし、それは、競争者が同一条件で競争をして、はじめて成り立つ理屈ではないだろうか。いまやどんなに経営努力しても、成熟した工業製品では中国やアジア諸国に勝てないことは誰もが知っている。人件費を筆頭に、生産コストがまったく異なるからだ。同じことは、身近な労働者においてもあるのではないか。個人の努力では、どうしようもなかった敗者が、世界中でたくさん生まれている。

 自由主義社会において、競争は根本原理であり、競争において効率は至上命題である。しかし、効率は、人間の営為の一部分でしか意味を持っていない。だから、人間にもっぱら効率を求めることは非人間的であり、競争に勝つことを最高の価値とする社会では、物質文化はさておき、豊かな精神文化は育たないだろう。そこでは、生きるために行うべきことがいつのまにか生きる目的に変化し、格差の拡大が当然のこととして容認され、結果的に、少数の勝者のみが、競争と無縁の文化という非効率的なものを享受する余裕を持ちうるからである。文化も金次第とならざるをえないのである。文化に多大の価値をおく社会では、このような状態をそのまま認め続けることはできないだろう。しかも、その競争は一見フェアーなように見えて、事実上は、その条件において、ルールにおいて、適用のされ方において、アンフェアーなのである。そうであるなら、人間が文化的に健康に生きてゆくために、競争のアンフェアーな部分に規制を加え、本来の対等性を復元する必要が生まれる。つまり、効率を犠牲にしても、社会における公平性を確保することが、人間が人間としてよりよく生きるために必要なこととなる。ただ、そのバランスが大変難しい。

 フランスでは、「共生」ということをたいへん大事にする。平俗にいえば、好悪や個人的関係を超えて、ともかく関わりある人間同士いっしょに生きていこうよ、という思想である。そのために、彼らは運動する。この社会で他者を守ることは自分を守ることであり、自分を守ることは他者を守ることでもあるからだ。

 憎悪が渦巻いていた宗教戦争の時代にあっても、モンテーニュは「人間に関わることは、何一つ他人事ではない」と言ったが、それを真摯に受け止めるには、実際には想像力と知性が必要である。日本人が、敗者、弱者に冷たいのは、なぜだろう。日本人が本質的にフランス人より冷たいとは思えない。むしろ、私には、日本人の方が公的なものに対する倫理や責任感が強いように思うし、社会に対する献身においてもなんら劣るところはないように思う。おそらく、欠けているのは、実践の基になる社会というものの正確な捉え方と社会的理念、そして社会的想像力なのではないだろうか。われわれは、西欧とはまったく異なる、日本的農耕社会や武家社会に根づいていた、空気と同じくらい当たり前の共生関係を、とくに意識することもなく、長く保持してきた。しかし、その古くからあった共生社会が、近代化と共に今やあちこちで変容し、加速度的に崩れている。今と昔とでは、自らの所属する社会が構造的にまったく違ってきている。にもかかわらず、そのことが持つ意味にわれわれは鈍感なままなのではあるまいか。ネットカフェ難民やホームレスがこんなにいて、しかもいつそこに転落するかわからない危険が誰にもありながら、われわれは何もしていないように思われる。

 自分を守り、他者を守るには、他者の身上に対する想像力と、小なりとも、理想、ないしは社会的ポリシーを持っていなければならない。自分が住む地域の人々を大事にし、自分を含む地域の暮らしを互いに守ってゆきたいなら、たとえば、たとえ少し高くても近くの店で買うこと、できるだけ身近な店でほしいものを探すこと、フランス人は、昔も今も、近隣の付き合いを大事にしてきた。それは、人と人とが互いに支え合うことであると同時に、自分たちの地区や町の繁栄を守ることであり、市民レベルでの共生思想、ワークシェアリング思想である。レ・アールが、けっして大繁盛ではないのを見て、フランス社会の隠れた力を見る気がした。

 レ・アールの地上階(地下が大型商店街)

 レ・アールの隣りにはサントゥスターシュ教会がある (2010年)