凱旋門(2010年)

 建設を命じたナポレオンの波乱万丈の生涯を反映してか、凱旋門には様々なドラマがある。

 凱旋門の建設が決まったのは1806年、ナポレオンが兵法の天才ぶりをいかんなく発揮してオーステルリッツ(アウステルリッツ)の戦い(オーストリア・ロシア連合軍との会戦)に完全勝利を収めた際である。しかし、1811年、建設を指揮する設計者が死去、さらに14年には、ナポレオン帝國が瓦解して建設は放棄となった。このとき、門は土台の工事が完了しただけで、5mの高さしかなかったという。それから約20年近く、ナポレオンを懐かしむ民衆の絶えたことはなかったが、復古王政下、王の敵であった彼も凱旋門も忘却のふちに追いやられた。しかし、七月革命を経た1832年、ついに建設の再開が決まり、工事は迅速に進んで36年完成に至った。ただし、ナポレオンは、それよりはるか以前に、南大西洋の絶海の孤島セント・ヘレナで、最後までイギリスの監視下にあって孤独な死を迎えていた(1821年)。本来の主役が門をくぐったのは竣工4年後の1840年になる。彼の遺骸のフランス帰還が許され、激論の末墓所に選ばれたアンヴァリッド(廃兵院)まで、壮大華麗な葬送行列が組まれたときである。国葬を凌ぐほどの盛儀で、ナポレオンの棺は16頭の馬にひかれ、沿道は人で埋め尽くされたという。そして、その一連の儀式の山場こそ、凱旋門通過だったのである。

 凱旋門は、上まで登ることができる。もとより小高い丘の頂上に作られているため、テラスからはパリを一望できる。下の写真は、1997年に上に登ってモンマルトル方向をとったものである。中央遠くにサクレ・クール寺院が見える。ここから眺めると、モンマルトルの丘が不思議なほど低く、まるで平地のように感じられる。