2005年4月初旬
パリの地下鉄駅に乗っているとき、ある駅のポスターで、クリムトのデッサン展が開催されていることを知った。
クリムト展のポスター。地下鉄の壁に、畳3畳くらいのサイズのものが貼られていた。 (2005年)
場所は、グルネル街マイヨール美術館、とある。こうして目に飛び込んできたのも、何かの縁だから、見て帰ろう、と地下鉄のグルネル大通りで下りたら、美術館がまるでわからず、通りがかりの人に道を尋ねた。すると、グルネルには、グルネル大通り/ブルヴァール・ドゥ・グルネル(青い番号15)とグルネル通り/リュウ・ドゥ・グルネルの両方があると分かり、目当てはリュウ(通り)のほうで、そこから1.5kmほど距離のあることがわかった。
しかし、こういうハプニングは、時間がたっぷりあるときはたいてい幸いするもので、大通りでは、ちょうど市が開かれていた。日本ではまず見ることのできないめずらしい野菜やきのこ、また魚が売られていた。
野菜では、ホワイトアスパラガス(上左)がとくに目を惹いた。買って帰りたいと思ったが、検疫に引っかかるだろう。魚もきのこも、まったく知らないものがたくさんある。惣菜では、エスカルゴ(下左)が売られているのが、フランスらしい。(2005年)
しばらくマルシェをぶらぶらして楽しんだ後、目的のマイヨール美術館に向かった。
さきに、グルネルにはリューとブルヴァールがあると教えてくれた初老の婦人は、大変親切な人で、距離はちょっとあるが、アンヴァリッドの前を通ってグルネル街に入ってごらんなさい、とても素敵なパリの景色が見られるわよ、と歩く道順まで教えてくれた。言葉のとおり、アンヴァリッドの前は広い庭園になっていて、視界が開け、その先にはアレキサンドル3世橋とグランパレ、プチパレがあって大変美しい。私は、すでにこの景色を知っていたが、道を教えてくれた婦人の知的で上品で善意にあふれている態度に魅了されてしまったので、彼女の好意を大事にしたい気がして、もう一度あの景色を楽しもうと、美術館までぶらぶら歩いた。もちろん、地下鉄に乗るのはもったいないとの気持ちもあったが・・・。
そのマイヨール美術館だが、この日のイベントとなったクリムト展を見終えて、階上に上がるまで、それがアリスティッド・マイヨールの美術館だということに気づかなかった。
たぶん、個人芸術家の美術館が、催事をするなど、思ってもみなかったせいだろう。パリには、ピカソ美術館、ロダン美術館、モロー美術館、ブローデル美術館、など、いくつもの芸術家個人のための美術館がある。その筋道で思い起こせば、たしかにマイヨール美術館の名称は私の記憶の片隅にあったはずである。しかし、そうした美術館では、同じ系譜の芸術家の特別展をする可能性はあっても、概して、まったく別の芸術家の展覧会を催すことはないだろう、いや、聞いたことがない。だから、私は、すっかりマイヨール美術館の存在を忘れて、財団の名前か、それを建てたコレクターの名前か、そんなところだろう、と、勝手に頭のどこかで決め込んでしまっていたのである。
マイヨール美術館は、一階が催事のためのスペースになっていた。つまり、小規模な催事が常時行われる、ということを示している。今回は、それがたまたまクリムトのデッサン展だった、ということである。
クリムトはどこに行っても大変人気のある画家である。パリでも数十人の行列ができ、美術館が小さいせいもあるが、20分ほど入るのに待たされた。会場は狭く混雑していて、休む椅子もない。作品の前では、日本と違い、多くは中産階級らしき中年の男性が供を連れ、熱心に絵を眺めては、小声で連れと感想を話している。ルーヴルなどの大美術館と違って、なんだか人気画家の最新作を発表する個展、といったような雰囲気があった。
その少し華やいだ熱気を感じる一階から、普通の家にあるような平凡な階段を上って二階に行くと、うそのように人がいなかった。上は、本来の、アリスティッド・マイヨールのための美術館だったのである。
まったく予期していなかった。
階段を上がって、え、と驚き、頭がめまぐるしく回転してようやく事態を理解し、なんだかすごく嬉しくなって笑みがこぼれた。このとき、クリムトのおかげでマイヨール美術館を見られたことは、定番の仕事で着る上着を買いに行ったら付録にものすごく素敵なネクタイがついていた、みたいに、嬉しく感じられた。もちろん、マイヨールよりクリムト、ではある。しかし、クリムト展なら日本にも来る。実際これまで10年くらいの間隔をあけて2回見に行ったことがある。一方、マイヨール展となると、まず何か特別なことがない限り、企画そのものが持ち上がるまい。そのうえ、ここには枚数は少ないがマチスのよく知られた重要なデッサンが何枚かあった。それも予期しない貴重な収穫だった。
10枚ほどあったマティスの作品のうちの2枚。他に、数色のコンテで描いた作品が2,3枚あった。
マイヨール作品の展示室
セザンヌの作品にいち早く注目し、彼の絵を世に出すことで財を成した画商ヴォラールの自伝によれば、精彩のない画家であったマイヨールに、彫刻をやってみるよう勧めたのは、彼であるという。美術館には、マイヨールの油彩画も展示されている。印象主義的表現主義とでも言うべき絵である。あまりオリジナリティは感じられない。その絵を見ると、なるほど、ヴォラールの画商としての眼力はたしかであったなーと思う。絵では商売にならなかったろう。ともあれ、画業だけを続けていたら、マイヨールの名は、後世、誰の記憶の中にもなかったに違いない。
マイヨール美術館を出て、再びグルネル街を歩いていたら、下の写真ような泉、ないしは公共水道を見つけた。
泉(公共水道) (2005年)
私は、美術のディレッタントにすぎないから、まったくいい加減な想像で言うが、これはグロテスクgrotesquesかマニエリスムmanierismeの系譜のものだろうから、オリジナルなら、早ければ16世紀か17世紀に、似たようなものはバロック期にも作られたようだから、それならば17・18世紀にさかのぼると思う。ただ、それにしてはちと痛みが少ないし、洗練されている。とすると、それが再び流行した19世紀ロマン主義時代のものか、あるいは昔のものの単なる複製かなー。いずれにしろ、私は至極気に入って、この高貴で高価な(たぶん)水道泉を、不埒な人間が盗んだ壊したりしないようにと祈念つつ、写真に収めた。
今度の旅行では、これと様式的に通づる古い椅子を、アゼイ・ル・リド城で見た。だまし絵ならぬ、だまし椅子、になっている。背もたれの模様が顔になる。
ローマでは、こうしたものをずいぶん見たが、フランスでは、あまり見た記憶がない。この流行は、16世紀ミラノに生まれハプスブルク家の宮廷画家として仕えたアルチンボルドなどを経て、マニエリスムのイタリアからヨーロッパ中の宮廷や貴族に広まったものらしい。その時代のものかどうかは分からないが、ともかく、パリでもそういうグロテスクの系譜らしきものを、偶然、クリムト展を見るために足を踏み入れた19世紀には貴族の邸宅街だったところで見つけ、ちと的外れかもしれないが、隠れた宝の発見者になった気分で、妙に、嬉しかった。
アゼイ・ル・リドの椅子(2005年)とアルチンボルドのだまし絵
その後、バルザックの『ゴリオ爺さん』を読み返していてようやく気がつき、少し顔を赤らめたが(老人力・・・)、グルネル街には、ボーセアン子爵邸があったのである。そこは、フォーブル・サンジェルマン(上流貴族邸界隈)でも最も輝かしい社交界が開かれていたところであり、成り上がり貴族なら、何としてでも招待状がほしい憧れのサロンのある場所だった。もちろん、ボーセアン子爵夫人は架空の人物である。だが、グルネル街は実在であり、小説どおり、ここには、かつて最も優雅な貴族たちが邸を構えていたのである。・・・すると、泉は本物かも? ともあれ、マイヨール美術館も、角にこの泉のある邸も、19世紀は貴族の邸宅だったに違いない。しかも最上層の。