アレクサンドル3世橋とグラン・パレ
グラン・パレは十年以上にわたる修復がようやく完了しつつあり、再び様々なイベント会場として復活しようとしている。すでに、修復工事と並行しつつ、美術の展覧会場として使われ始めたことを、先日衛星放送のニュースで知った。
40年ほど前、私はここに何度か足を運んだ。当時グラン・パレはサロン・デ・ザンデパンダンやサロン・ドートンヌの会場となっていたからである。サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・ドートンヌは、西欧近代絵画に興味のある人ならみな知っている展覧会だろう。19世紀末、アカデミー絵画の牙城だったサロン(「官展」と訳している)に対抗して、近・現代絵画を創出していった人々が、自分たちの作品発表の場を確保するために組織した。およそ後期印象派以降の画家として名をなした人なら、出品者リストに必ず名前が見つかる。そういう展覧会である。
当時、私のパリの友達は、ほとんどが夢を食べて生きている若く貧しい画家だった。彼らの多くは日本で稼げるだけ稼いで、その金を使い切るまでパリで絵を描く、という生活をしていた。日々の生活費を削れば、それだけ長くパリに滞在できる。わずかな仕送りで暮らす私もそうだったが、みな一日でも長くパリにいるために、爪に火を点すような生活をしていた。私たちは、よほどのことがない限り、レストランで食事をすることがなかった。食費を倹約するために、法に反して、安ホテルにキャンピングガスを持ち込み、二、三人で一緒に煮炊きした。一人より二人、二人より三人が倹約になったが、それ以上はキャンピングガスの能力を超えた。
なぜホテルに、と思うかもしれない。当時、台所やトイレのある単身者用アパートよりも、場末のホテルの方が、部屋代がずっと安かったからである。私は、モンパルナスの、2、3階が連れ込み宿となっているホテルの、屋根裏部屋に暮らしていた。そこには洗面台はあるが、トイレもシャワーもない。トイレは半階下の踊り場を共同利用し、風呂に入りたければ、フランス国鉄の駅に行って、そこで金を払って入るのである。いまの金でいえば、一回500円くらいであろうか。気候が違って、体がべとつかず、不快を感じなかったせいもあるが、それ以上に500円は貧乏人には大枚に思われた。だから、一月に一、二度利用するのが、私や彼らの「標準」であった。
このような生活をする彼らの目標は、サロン・デ・ザンデパンダンかサロン・ドートンヌで入賞することであった。フェアなパリで、絵の真価が認められ、それによって画商がつき、きっと生活も確保される。日本では芸大出しか画商がつかず、絵の実力と無関係に、主に師弟関係によって芸術の価値が決まる。彼らは共通して日本の現実をそのように捉え、憤り、パリに夢を託していた。
グラン・パレは大きな建物である。天井がものすごく高い。そこに20号30号の絵を持ち込んでも、まったく目立たない。だから、50号以上の絵を描き、苦労してそれを会場に運び、出展料か審査料を払って審査を受け(記憶があいまいだが、サロン・デ・ザンデパンダンのほうは、設立の経緯からしても、無審査だったように思う)、ようやく展示にこぎつける。画布と絵具代だけでも大変な金がかかるが、それだけはケチるわけにはいかない。そんな彼らの苦労を見ながら、私はノーテンキに自分の趣味で密かに友人の絵をランク付け、その絵が会場のどの位置に飾られているか、自分の評価とつき合わせながら確認しに行くのだった。高い評価を受けた絵は目立つ場所に、その逆は見上げるような位置や光の不足する位置に展示される。だから、本人にとって、最初に会場に足を踏み入れることは、審査のときと同じくらい緊張するものらしい。一緒に行くと、たいてい、いつになく多弁になっていた。
それから40年が経過した。私はパリで10人ほどの同世代の画家と知り合ったが、現在プロとして生活しているのはひとりだけである。毎年とてもいい絵を描き、いくつかの専属ギャラリーで個展を開き、ほぼ完売している。彼は、75年サロン・ドートンヌで銅賞を受賞した。ただし、それによって画商がつくことはなかった。その代わり、おそらく、自信と、この道への決意がついた。帰国後しばらくサラリーマンをしながら絵を描いていたが、結局、真の才能に基づく努力は報われるものである。
一方、彼以外の彼らの多くは、幸か不幸か、いま普通に働き普通に暮らす人になっている。もはや絵筆を持つこともない。現実は厳しい、といえるかもしれない。けれども、実は、そうではない。私は彼らにとって、現実は少しも過酷ではなかったと信じている。夢を食べていたあの頃は、充実した日々でこそあれ、けっして無駄ではなかっただろう。早晩老人の仲間入りする年齢になって思うが、私にとって、これまで、むなしい成功はあったが、一つとして無駄な失敗はなかった。失意と落胆は、結局、自分にとって何が本当の幸福かを教えてくれるきっかけにほかならなかった。彼らも、きっとそうであるにちがいない。
畏友、舟山一男さんの個展の案内はがきより
グラン・パレの正面口 (2010年)
セーヌ河と向こうに見えるグラン・パレ