ぺ(「平和」)通り Rue de la Paix と奥にヴァンドーム塔 (1997年)

 かつて、ここはパリで最も高級な界隈だった。日本で言えば銀座4丁目だろうか。この通りを通ってヴァンドーム広場に入ると、さらに高級になり、右手にはダイアナ妃で有名な世界でも指折りの高級ホテル「 リッツ」がある(一緒に事故死したアラブ系大富豪の父がオーナー。近年は<超>高級ではなくなったらしい)。他にもいくつもの名店があるらしいが、ブランドに疎い私には、カルティエとゲランくらいしかわからない。下は19世紀末のペ通りである。

  第1次世界大戦のパリ講和会議のとき、アジアの大国としての威信を見せたかった「一等国」になりたての日本は、ホテル・リッツを長期間借り切って大いに話題となった。ロシュフーコーの箴言に、「嫉妬は自分への恐れである」という名言があるが、それをもじれば「虚勢は自信のなさの現れである」。日本政府のこの頑張りは、民族の誇りと自信のなさの葛藤から噴き出たエネルギーに由来するにちがいない。それでも、傲慢で独善的な昭和史と比較するとコンプレックス丸出しで、ちょっといじらしい気はする。とはいっても、当時既に、西欧に対するのとは逆に、東洋には優越感からひどく高飛車になり、中国に「21ケ条の要求」を出していた。第1次大戦前までアジア諸民族独立の希望の星だった日本は、いつの間にか西欧を見習って、侵略への道をまっしぐらに走り始めていたのである。

 大正から昭和の歴史を見ると、文明とは嫌なものだな、と思う。その文明の輸入元パリもフランスも、こんなに美しいけれど、街の道路掃除やゴミ回収をしている人の多くは、旧植民地から帰化した貧しいアフリカ系フランス人である。地下鉄に乗ると、あるいは庶民街に行くと、実に多くの肌の色に出会う。みなフランス人である。百年の間に、いや、私が初めてフランスの地を踏んだ1972年から今日までの40年余りの間でさえ、急激に異人種・異文化が入り込んで混合し、フランスとはフランス人とは何なのか、昔のイメージからはだいぶ隔たりが出てきた。ともあれ、街にはさまざまな人種や言語や文化があふれている。残念ながら、これらは自然に混合したのではない。結局、植民地支配の結果から今日こうなったのである。一つに融合することはいいことだ、という考え方もある。しかし、多種多様な人と文化が、独立を維持してアイデンティティを失わずに緩やかに文明の利便性を享受できるようになっていれば、もっと良かったのではないか・・・。少なくとも、人種と密接な関連性を持って暗然とパリに存在する階級や富と貧困を意識させられるたびに、日本は負けてよかった、と思わせられる。かつて西欧が勝手に仲間内で取引して国境線を引いたアフリカの国々では、毎日のように言語が消滅しているそうである。それぞれの部族にあった言語が、旧宗主国の言語に侵食され消えてゆく。子供は学校でフランス語や英語で教育を受けるため、孫の世代になれば、もうおばあさんの言葉を知らない。だから、部族の言葉は急速に消滅し、西欧の記述した歴史が彼らの歴史になる。それは、たとえ正確でありえたとしても、向こうから見ただけの抜け殻に過ぎず、彼らの「歴史」ではあるまい。

 幸か不幸か、日清・日露に始まる日本の植民地主義は、太平洋戦争の手痛い敗北によって潰えた。莫大な犠牲は、当時のアジア唯一の「文明国」日本の愚かしさを教え、合理性に欠く集団的情緒の危険を教え、同時に国のあるべき姿や人の本当の幸福とは何かを、どん底でしみじみと教えてくれたのだと思う。

 しばしば思うのだが、日本が西欧文明から輸入した最も深刻なものは、もしかすると、西欧的神から宗教性を抜きさった「絶対」という観念ではなかったのだろうか ・・・。 知らぬ間に特異な形で日本中が「絶対」に完全に染まり、敗戦によってようやくそのくびきから脱したのではないだろうか。本来、八百万の神々が住まう日本が、天皇・国家という絶対価値を信じて「一神教」になったのは、歴史始まって以来のことである。近代とともに、西欧の宗教的文化から飛んできた「絶対」の種が、昭和になってナショナリズムを母体にして日本的に変異し、「国家教」を生み出した・・・そんなふうに私は考えてしまう。ともあれ、日本は、西欧と同じ文明の土俵に乗ろうと懸命に努め、あるところで通じ、あるところで特異に歪み、そして破滅した。

 ホテル・リッツから、つい脱線した・・・。それにしても、駆け出しの青年みたいだった明治の経済小国日本にとって、ホテル・リッツは高かったろーな。分不相応にやせ我慢して胸を張っている、この少し滑稽なところが、唯一救いである。

雨のヴァンドーム広場 (2010年)

 私が「ヴァンドーム広場 」という名詞を覚えたのは、MJQ(Modern Jazz Quartet) のアルバムによってで、高校生のときだった。パリの実在の広場とも、フランス語の名であるとも全然知らずにいた。2010年、ルーヴル美術館から出てサントノレ街を歩いていたら、しとしとと、なかなか止まない雨が降り始めた。パリでは珍しいことである。そして、日本の梅雨のような灰色の空の下、サントノレ街からヴァンドーム広場に出ると、不意に頭の中にMJQのこの曲が流れだした。軽快でちょっと哀調を含んだメロディは、雨のヴァンドーム広場にとても合致していた。