リボリ街 (2005年)

 海軍省(手前の建物)から小さな通りを一本渡ると、パレ・ロワイヤルまで、ずっとアーケードになっている。もちろん、見ての通り、建物の1階部分が回廊のようになっている構造をいうので、日本のアーケードとはまったく違う。同じなのは、商店街になっていることである。

 パリをうたったシャンソンの名曲のひとつに『マドマゼル・ドゥ・パリ Mademoiselle de Paris』というのがある。日本では『パリのお嬢さん』と訳されているが、内容は、パリ・ファッションを陰で支えている貧しく可憐なお針子さんをうたったもので、「お嬢さん」ではなく、「パリの娘さん」でなければならない。その歌詞の一節に、「彼女の王国、それはリボリ街 Son royaume, c'est la rue de Rivoli」とある。歌の中に、オペラ座での仮面舞踏会が出てくるので、時代は19世中葉から第一次大戦前頃までのいつかだろう。で、私がこの歌から知ったことは、その当時、リボリ街はファッション街だったということである。

 フランスでは、1830年代後半から、産業革命の恩恵によって、布地が急激に安くなる。布地が安くなると、当然、多くの人が服をあつらえることができるようになるし、史上初めて、プレタ・ポルテ、つまり既製服というものも登場する。パリは、昔から、文化先進国で外国人観光客が多い都だった。ドイツや東欧やロシアから、田舎貴族がパリにやって来ると、短い滞在期間の間に大急ぎで服を新調しようとする。19世紀前半、そのニーズに応える店が、当初パレ・ロワイヤルに軒を連ねていたという。つまり、その頃ファッションの中心地は、パレ・ロワイヤルであった。それが、産業革命によって、貴族ばかりでなく、プチ・ブルジョワまで服を新調できるようになり、一挙にマーケットが広がった。そのため、中心街にありながら島のように閉塞した感のあるパレ・ロワイヤルでは狭すぎるから、服飾に関しては、人の流れのいい西に拠点をずらした、ということであろうと思う。もっとも、一説によれば、パレ・ロワイヤル衰退の原因は、娼婦の出入りと賭博を禁止したせいだ、とも言われる。いずれにしろ、パレ・ロワイヤルは19世紀半ばから急速に衰退に向かい、歓楽街はグラン・ブルヴァールへ、お洒落はリボリ街とへ移っていった。

 しかし、いま、リボリ街には、かつての繁栄はまったくない。最新流行の服をショウウィンドに飾る店も、その装いに欠かせない高級宝飾品を売る店も、このアーケードには一軒もない。一番目につくのは、観光客相手の安物のお土産を売る店である。戦後、ファッションの中心は、さらに西のフォーブール・サントノレ街に移った。しかし、そこも、今では、かろうじて君臨しているような様相で、往年の華やかさが見られない。聞くところによれば、まもなく、ファッションの中心はモンテーニュ街に移るだろう、とのことである。

  モンテーニュ街に本店を移したルイ・ヴィットン (2005年)

リボリ街の書店 (2005年)

 リボリ街で見つけた、さして大きくない書店のショーウィンドである。日本では、たぶん百倍二百倍の規模と売り場面積がある丸善だって、紀伊国屋だって、こんなディスプレーはしていない。本が、庶民には手の届かない高価なものから、誰もが買う一般的な商品に変わってたかだか百五・六十年ほどだが、ここにはもっと長い、「見せること」「ディスプレイ」への伝統が生きていると思う。

 店内である。この程度の大きさの書店なのである。小さな店にしてあの飾り付け、私は、美に対するフランス人の愛、を感じてしまう。

 店内で新鮮だったのは、商品の展示の仕方もさることながら、図書館のようにはしごがあったことである。売れない本は次々に片付けられる日本の書店では、きっとこのような非効率的な置き方はしないだろうな、と思った。そういえば、もう20年以上も前の話だが、アランの『バルザック論』をフランスに郵送で注文して入手し、裏表紙を見たら小さな紙が貼ってあった。そーとはがすと、なんと、旧フランの価格が出てきたのである。第二次大戦後まもなく出版された本が、半世紀近くも在庫されていたということである。税制が違うから日本とは比較できないが、いいものは、たとえなかなか売れなくとも取って置く、そういう見識を見た思いがした。