シャトー・ドゥ・サッシェは、建物だけなら完全に名前負けしている。これはシャトー(城)というより、やはり、ちょっと大きなメゾン(家)だろうと思う。現在、シャトー・ドゥ・サッシェはバルザック文学館となっている。
この館の持主は、ジャン・ドゥ・マルゴンヌといった。「de(ドゥ)」がつくから貴族のように思われるが、一帯の領主権を取得した祖父には、deはない。つまり、ブルジョワと下級貴族の中間に属すような存在と考えていいだろう。
フランスでは、早くから、官職や爵位の売買が行われていた。帯剣貴族と法服貴族という言葉があるが、後者は一般にブルジョワ貴族である。三権分立で有名なモンテスキュー家がとりわけ有名だが、高度の専門知識を必要とする職は、概して、ブルジョワの独壇場だった。ブルジョワは蓄財に励み、子供に可能な限りの教育投資をし、晴れて官職と爵位を買う。それは同時に免税特権を手に入れることでもあった。ブルジョワにとって、官職と爵位は、金で買える最高のものであったろう。もちろん、それを利用できる能力がなければならないが。
このようなフランスの旧い制度は、フランス革命によって根底から覆ったことになっている。しかし、破壊されていったん更地になりはしたが、よくも悪しくも、必要な伝統は再び更地から復活するものである。新たに最も多く貴族を生み出したのは、ナポレオンといわれている。その帝政があえなく崩壊して、またもや体制は大きく変化したが、つづく復古王政でも、七月王制でも、この伝統は形を変えながらしぶとく生き残った。人間の虚栄心や特権願望が永遠だからであろうか。
マルゴンヌ家は、いわばこのようなフランスの文化土壌で、世代をかけて立身出世を果たした規模の小さなブルジョワ貴族であった。バルザックの父も、革命期から王政復古期にかけて、軍の兵站部門に勤務して、相当な立身出世を遂げた人物であったが、スタートが無産の農民だったため、そこまではたどりつけなかった。しかし、彼は密かに本名の「バルサ」を、名門貴族バルザック・ダントラーグ家から、同じ名字の「バルザック」へと改めた。それに、勝手に、恒常的に、「de」をつけるようになったのは、息子の作家オノレ・「ドゥ」・バルザックである。
父はトゥール市に在任中、市の助役を務め、町の名士となった。だから、古くからの町の名士であったマルゴンヌのような人々と親交を結ぶことができた。フランスでは、社交は単なる懇親の場ではない。社会の中の小社会として大事な機能を持っている。どのサロンからも迎えられないような人物は、社会的には無に近い。サロンでは、常に、力が測られ、人物か見定められ、必要に応じて互いの利益を図り合う。だから、バルザックの両親がトゥールのサロンに迎え入れられたことは、彼らの社会生活において重要なことであった。
しかし、バルザック家とマルゴンヌとの間は、やがて親交程度ではすまなくなる。彼の母とマルゴンヌとが恋仲となり、子供を宿したからであった。生まれた子供は男子で、アンリと名付けられた。アンリは、あくまでバルザック家の子供として育てられたから、不倫の子であるかどうかの物的証拠はない。だが、マルゴンヌは遺書で、アンリに対して20万フラン(約2億)の遺産相続を明記している。アンリの方が先に死んだために、この遺言は履行されることがなかったが、何よりの不倫の状況証拠だろう。
バルザックの母は、長男オノレには冷淡かつ無関心であった半面、アンリには濃やかな愛情を注いだ。バルザックは、そのことに、生涯恨みを抱いていた。にもかかわらず、オノレは、この恋愛に対して、大変寛大である。フランス的結婚の文化伝統が背景にあるからなのか、自らも不倫を重ねたからなのか、情熱というものがどういうものか誰より知悉していたからなのか、おそらく、そのすべてだろう。バルザックは、母の愛人マルゴンヌを敬い、マルゴンヌも、いつでも喜んで彼の執筆のために屋敷を提供した。こうして、このマルゴンヌ邸で、数々のバルザックの傑作が生み出された。
邸内にあるバルザックのレリーフ。残念ながら、あまり似ていない。