シュノンソーはロワールの城の中で最も有名であり、城にまつわるさまざまなエピソードが、どんなガイドブックにも紹介されている。しかし、正確で、しかもきわめつきに高尚かつ興味深い知識を得たいならば渡辺一夫の本、シュノンソーに限って面白いエピソードを知りたいならば高階秀爾の本(『ルネサンス夜話』)、の右に出るものはない、と思う。どちらもアカデミックでありながら大変面白い。

 仏文科に入ってまもなく、私は渡辺一夫のフランスルネッサンス物に夢中になった。ちょうど「渡辺一夫著作集」が次々に出版されていた時期で、それまでなかなか読めなかったものが簡単に読めるようになった。仏文科の研究室から借り出したり、ときには友人からも借りて読んだ。

 フランスのルネッサンス時代・宗教戦争時代は、歴史的事実を読むだけでも、相当に面白い。その事実にさまざまな人間模様が織り込まれ、さらに細部の興味深い経緯や背景が明らかにされ、その結果、問題の事実がかなり生々しく感じられ始めると、研究書であっても、まるで時代小説の傑作を読むような興奮を覚えることができる。しかも、その文体の中に、筆者の高潔な精神が宿っているのが分かってくると、それはもう最高の読書となる。渡辺一夫の本は、そういう満足感を与える本だった。

 いいと思った人の本はみんな所有したくなる。「著作集」はすべてほしい、と思った。しかし、学生の身分では非常に高かった。高価な本も、古本市場に流れれば安くなる。しかし、刊行真最中の「著作集」が、まるごと古本で手に入るようになるまでには10年以上は必要だろう。

 自室の本棚を見ると、私のマイブームの履歴がよく分かる。だが、渡辺一夫の本は数冊しかない。いま古本で探せば、相当手ごろな値段になっていると思うが、マイブームが去ると欲望の方も消えてしまう。消えずに残り続けているのは、楽しい読書の記憶と、そのおかげで面白くロワールの城めぐりができた旅の思い出だけである。

 シュノンソーの正面入口 (2005年)

 花壇の色のセンス! あー、フランスだー、と思う。

  シュノンソーは、日本でいえばまぎれもなく第一級の国宝であろう。大きさからいえば、彦根城だろうか。私は、当然、国が所有し、国の予算によって管理されているものと思っていた。ところが、そうではないのである。シュノンソーの持ち主は、かつてフランスのチョコレート王で、現在はフランス・ネスレの大株主、ムニエ家であった。

       

 20世紀初めに城を買い取ったガストン・ムニエと妻クレールは、厚い慈善心の持主だったらしい。養老院を建設したり、第1次大戦では、傷痍軍人のために、ここを病院として使っている。彼らの無償の精神は、いまもムニエ家に継承されているように見える。そう感じるのも、知識がなければ、シュノンソーを訪れた誰一人、城とチョコレートを関係づけることはないからである。もし宣伝に利用すれば、ムニエのチョコレートは、シュノンソーの文化価値によって、世界中に知られるだろう。それをあえてしない。しかも、ムニエ家は、この城に対して並大抵でない愛着を持っているように思われる。

 シュノンソーの庭園には、常に季節の花々が、緻密にコーディネートされて植えられている。芝生には雑草一本はえておらず、庭いじりの経験のある人なら、そこにいかに細心の注意が払われているかすぐに分かる。さらに、城の内部には、各階ごとに、たいへん見事な生け花がしつらえられている。(下の3枚の写真) これほど丁寧な心遣いのなされた名所を、私は他に知らない。銀閣寺の庭園のように、表にはまったく出ることなく、生涯かけて庭園を守っている何人もの第1級の庭師がおり、彼らを世代にわたって雇っているにちがいないのである。持主の精神は、必ずや下で働く者に反映するだろう。彼らが、このように、庭師としての腕を十全に発揮できるのは、雇い主が真に貴族的な人だからではないだろうか。