フランス語ではイギリスのことを「アングルテール」とも「グランド・ブルターニュ」ともいう。

 「アングルテール」には、「アングル」と「テール」という二語が組み合わさっている。「アングル」はアングロ=サクソンのアングル、つまり厳密には5世紀からイギリスに侵入し、やがてイギリスの過半を征服したゲルマン人たちの内のアングル人を意味するが、実際にはイギリスに侵入したゲルマン人全体を総称して使っている。一方、「テール」とは大地・土地を意味し、ひいてはその土地に建てられた国を指している。したがって、「アングルテール」は、「イングランド」(イングル=アングル人のランド)と同様、<アングル人の国>という意味になる。

 410年頃、ローマ帝国がブリタニア防衛を完全に放棄すると、イギリスにはアングル人、サクソン人、ジュート人のゲルマン部族が大規模な侵入を始めた。彼らから土地を守るため、それまでローマ帝国下にあったケルト人たち、つまりブリトン人(フランス語ではブルトン人)たちも戦うが、諸部族間に結束がなく、敗北を続け、じりじりと西へ西へと追いやられる状況だった。そんな中、500年頃、ブリトン人(あるいは、ローマの血を引くブリトン人)の中からアーサー王伝説のもとになる英雄が現れ、諸部族をまとめてゲルマン人と果敢に戦い、勝利したと推定されている。だが、そのとき同時に、西に追いやられたブリトン人たちの一部は、故郷を捨て、海を渡り、いわば難民となって古くから往き来のあったブルターニュに渡って行った。ブルターニュBretagne とは、こうしてフランスにやってきたブリトン人=ブルトン人 breton から由来した名称である。したがって、彼らがもともと住んでいたところは、大ブルターニュ=グランド・ブルターニュGrande Bretagne (つまりグレイト・ブリテン)となるわけである。

 ブルターニュには、いまでもブルトン語という島嶼ケルト語のひとつが生きている。ブルトン語は、ウェールズ語、コンウォール語と非常に近い関係にあるらしく、これら3つの言語は、一般に、アイルランド語、スコットランド語、マン島語(マンクス語)の「ゲール語系」に対して、「ブリタニック諸語系」と呼ばれている。ブリタニック諸語の地理的位置関係を考えると、5世紀から8世紀の間、もっとも過酷にゲルマン人たちの圧迫を受けて辺境に押しやられ、そこでどうにか生き延びた人々の言語であることが推察される。

 それにしても、ヨーロッパ大陸に広く居住していたケルト人たちが、ことごとく自分たちの言葉を失ってしまったにもかかわらず(「大陸ケルト語」は消滅している)、唯一大陸の果てのブルターニュ半島に、イギリスから流れついた<島のケルト語>が生きている、というのは、いかにも歴史のドラマを感じさせないだろうか。

 しかも、彼らの避難元の大ブリテン(イギリス)では、日常的にケルト語を話す人間の数が、かつてケルトの地であったウェールズにおいても約30万、スコットランドにおいて約3万、コンウォールにいたってはほぼ消滅し、また「ケルトの国」といってもいい最もケルトの血が濃く残るアイルランドでも、イギリスの支配を受けていた時代に言語が英語となってしまったために、約2万人しかいない。それに対して、避難先のブリテン(ブルターニュ)には、現在約25万人おり、さらに日常的には使わないが話すことのできる人間が、約66万人いる。この数は、ウェールズの59万人より多い。もう一つついでに言えば、アーサー王の伝説はイギリスで生まれ、イギリスでわれわれが知る物語へと成長していったと多くの人が思っているが、どうもそうとは言えない。少なくともジェフリー・オブ・モンマス(『ブリタニア列王史』の著者)以前に、物語の誕生と発展の過程で、ブルターニュが非常に重要な役割を果たし、逆に、イギリスに影響を与えていることがだんだん明らかになっている。というのも、アーサー王の物語が形をなしてゆくのは、フランスのノルマンがイギリスを征服(ウィリアムのイギリス征服)したのちであり、ノルマンの宮廷文化の中にはすでにブルターニュの文化が入っていたからである。要は、島のケルト文化において、大陸のブルターニュは、本島に匹敵するほど、重要な地だ、ということである。

   カンペールの街のパンフレット (2005年)

 カンペールはそのケルト人の言語(ここではブルトン語)にとって重要な都市である。というのも、ブルトン語を話す人々が多く居住するのは、ブルターニュ半島でも西半分だけであり(50パーセント以上の人がブルトン語を話す)、その西半分の大半を占めるフィニステール県の県庁所在地が古都カンペールだからである。上の写真は、カンペールの観光案内所でもらった案内冊子である。中央に、白いフランス語の文字と、ベージュ色のブルトン語の文字で、ともに「カンペール」と書かれている。また、中の文章もすべて二つの言語で記されている。さらに、街に出れば、公の建造物にはすべて両言語が併記されている。国民国家思想が全盛であった時代には肩身の狭かった少数言語ブルトン語も、その思想が二つの世界大戦の反省から歴史的役割を終え今やむしろ弊害を生み出すことの方が多いと見なされるようになった現代では、かつてとは逆に、貴重なケルトの文化を伝える生きた人類遺産と捉えなおされるようになった。統一よりも、多様性を認め尊重する時代の流れを象徴しているといいうるかもしれない。

 

 カンペールはかつて「カンペール・コランタン」といったそうである。コランタンはキリスト教の聖人、聖コランタンで、13世紀に、町の中心にその教会(下の写真)が建てられた。だが、私のようなバルザッシアン(バルザック研究者)には、コランタンといえば、すぐ『浮かれ女盛衰記(娼婦の栄光と悲惨)』が思い浮かぶ。大学2年の夏に初めて読んだときワクワクするほど面白かった。そのワクワクを盛り立てくれた登場人物がコランタンなのである。

 聖コランタン教会は、正面左の鐘楼部分を大掛かりに修復している最中であった。足場が組み上げられて外観が見えぬばかりか、建築工事にともなうさまざまな機械や石材やシートがところせましと置かれていて風情がないので、背後から撮影した。

 教会の城壁をくぐると、このような洒落た模様の鉄柵に出会った。ちょっとケルトなアールヌーボーという感じか。実にすぐれたデザインだと思う。

 

 カンペールの中心街には、優に2百年はたっていると推定される建物があちこちに残っている。

 壁面にスレートが使われている珍しい建物

 建物が一部傾いている。歴史の味わいを感じるが、日本のような地震国では危なくてとても住めたものではない。

 そういえば、学生時代、ある教授が授業中の雑談でこんな話しをしていた。新潟沖地震で、地盤の液状化のため鉄筋アパートがドミノ倒しのように傾いた写真がフランス・ソワール紙(夕刊紙)に載ったとき、フランス人は、妙な反応をした。「日本の建物はこんなに傾いても崩れないとは、実に立派なことだ」って。うれしい気持ちがしつつも、「顔が赤らんだよ」と。怪我の功名というか、馬鹿な失敗を逆にほめられた居心地の悪さというか、ともかく、風土が違うとそういう視点もありうるわけである。

 川の上に迫り出した商店。店の前には橋がある。橋はかつて最も人が通るところであり、商売には最高のロケーションだった。

 カンペールの劇場。かつて芝居がいかに重要な娯楽であり文化であったか、地方で立派な劇場を見るたびに思う。

 カンペールの劇場と川を挟んでその斜向かいにあったレストランである。雰囲気もよく、大変おいしい料理が、パリの三割安くらいで食べられた。