ブルゴーニュ公宮殿 Le Palais de Duc de Bourgogne  (2010年)

 ブルゴーニュ公宮殿は、現在、市庁舎(左翼)と美術館(右翼)として使われている。

 ディジョンやボーヌに来て、ブルゴーニュ公国のことを知らないと、町の魅力は半減する。いや、もっと減じるかもしれない。事実、30年以上昔、私が初めてディジョン大学のサマースクールに来た時、私はほとんどその歴史を知らなかった。そのため、一度市街に出て半日を過ごしたが(大学は郊外にある)、古い建物を見ても特段の興味も覚えず、パリに比べてさみしい町だなー、という感想だけが残り、再び街に出ることもなくディジョンを去った。

 町との出会いは、たとえてみれば、人との出会いと同じようなところがある。やはり30年以上昔、私が仏文科の学生になりたてで、フランス文学についてほとんど知らず、またクラブ活動に熱中して片手間で勉強していた頃、1年間、E先生の特講の授業を受けた。紳士的な先生で、出来の悪い学生たちを自分と対等に扱い、坦々と授業を進め、時折ごく短い雑談を、まるで漏らすようにするだけで、私に強い印象を残すことがなかった。しかも、私が受けた授業は、先生の定年前最後の一年だったために、以後二度と先生に会うことがなかった。それから数年して、私は大学院に進んだ。修士課程を終えて少し余裕が生まれた頃、自分の専門とは別に、ある作家のことが急に知りたくなった。そこで、その分野の著名な論文に当たったら、それは、ほとんど名前を忘れかけていたE先生のものだった。また、翻訳を探したら、他にも有名な大家はいたが、E先生のものが多く見つかった。そして、自分の興味を満たすために先生の論文を読んで、初めてその思考の深さとまれな日本語のセンスの良さを知った。それからしばらくしてである。新聞の死亡記事で、E先生の逝去を知ったのは。直に教えを受けた経験があるだけでも幸運であったが、もし先生のことをもっとよく知っていれば、あの短い雑談がどれほど味わい深かったろうか、と思う。また学生の訳を訂正する時に述べる根拠の中にどれほど深い経験と知識が含まれていたか、もしそれを知っていれば授業がずっと楽しめたろうと思う。そして、30人ほどの教室で平気で寝るような無礼を、先生に対して働くこともなかったろうと思う。それは、いわば宿命みたいなものではあるが、それでも、思い返すと残念でならない。

 いまは自分が先生の立場になった。といっても私の場合は、学生が寝ても仕方がないかー、というところだが。

 学期が始まれば、毎日のように学生と接する。教育とは難しいものである。そこでよく分かることは、やはり勉学にも才能があるということである。想像力と感受性がなければ、教育の熱意も善意も真には通じず、努力をさせてもだめなことは多々ある。想像力と感受性がなければ、知識は本当には身に付かない。これは才能なのである。才能がなければ努力してもあまり意味がない。努力だけで獲得した知識は、無味乾燥の単なる知識で人の心を動かさない。しかし、にもかかわらず、またもう一つ重要なことがある。それは、知識がなければ、想像力は羽ばたかない、という事実である。そして、ここにはある程度努力が必要である。それは、いわば、ジャンプ台を作る努力である。

 矛盾に満ちた言い方に聞こえるだろうが、要は、知識はとても大事なのである。知識は、いわば想像力や感受性の美しい建造物を作る道具や材料なのだ。主体は想像力や感受性であっても、道具や材料がなければ掘立小屋さえおぼつかない。確かなものは何もできず、結局何も残らない。どちらが欠けても美しいものはできない。

 そして話は戻るが、ディジョンやボーヌを訪れて、街のあちこちに残る古い歴史に感動するには、多少なりともブルゴーニュ公国についての知識が要る。

 下の写真は公の宮殿の中庭にはめ込まれていたプラックで、「ジャン無怖公1371年、フィリップ善良公1396年、シャルル豪胆公1433年、この宮殿にて生まれる」と記されている。年号はローマ数字になっているため、分かりずらいが、M が千、C が百、L が50、他は知ってのとおり X が10(以下省略)である。この宮殿で、ブルゴーニュ公国の4人の主役のうち、初代を除く3人が上の写真の建物で、つまり現ディジョン市役所で誕生したことになる。

 一般に、ブルゴーニュ公国というとき、1363年のフィリップ大胆公 Philippe-le-Hardi 登位から1477年のシャルル豪胆公 Charles-le-Teméraire 戦死(敗死)による公国崩壊までを指している。それ以前は、いわば「ブルゴーニュ」であって「ブルゴーニュ公国」ではなく、以後もまた再び「公国」ではなく「ブルゴーニュ」にもどる、ということである。

 「ブルゴーニュ」が「公国」になったきっかけは、1361年カペー家ブルゴーニュ公家の男系血族が絶え、ヴァロワ朝フランス王家に吸収されたことによる。ときの国王ジャン2世は、1363年公領を第4子で末男のフィリップ(大胆公)に与えた。

 このフィリップ大胆公が、1369年フランドル伯の娘マルグリットと結婚するが、フラドル伯家は男系が絶えて彼女が相続者となるため、フィリップは労せず当時最も豊かだったフランドル(ベルギー)とアルトワ(北仏)を手中にするのである。しかも、その後も公国の領土拡大は続き、フィリップ善良公がネーデルランド、ルクセンブルクなどを、シャルル豪胆公が一時期ロレーヌ、アルザスを公国に組み入れている。つまり、ブルゴーニュ公はフランス王家よりはるかに豊かで広い地を領有することになった。

  ふたたび代を戻して、二代目のジャン無怖公だが、彼は宮廷政治をめぐって王妃イザボーと組むオルレアン公ルイと対立、1407年、公を暗殺してしまう。これによって、緊張関係にあったフランス宮廷のブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立は一挙に激化、ジャン自身もアルマニャック派に暗殺される結果を招いた。ときは百年戦争の真っ最中である。フランドルを領するブルゴーニュ家は、フランドル繁栄のもととなっている毛織物の原料をイギリスに依存していたために、イギリス側に加担していた。(この頃は、国家の戦争というより王家の、つまり家と家との戦争である)

 だから、百年戦争は英仏の戦争であると同時に仏仏の戦争だった。より正確にいえばフランスA対フランスBとイギリスとの戦争だった。

 この戦争に決着つけるべく、忽然と現れたのが神がかりの少女ジャンヌ・ダルクである。彼女は、ランスを奪回してシャルル7世の戴冠式を挙行することに成功し、それによって後に、フランスを救った聖女として聖別され、救国神話の英雄となった。だが、彼女を火あぶりにしたのは、イギリスだったのかフランスBなのか。ともあれ、ブルゴーニュ公国は、歴としたフランスであると同時に、ジャンヌ・ダルクを殺したのがフランスでないなら、フランスではなかった。

 歴史にもしは禁物であるが、もし、その後、フランスとブルゴーニュ公国が対立を和らげて、穏やかに旧来の繋がりを回復することができていれば、もしブルゴーニュ公女がフランスの王族かその臣下の大貴族と結婚できていれば、オランダもベルギーもルクセンブルクも、フランスであったかもしれない。そして、もしそのまま現代に至っていれば、フランスは人口1億にならんとするドイツをあらゆる面で凌ぐ大国であったかもしれない。しかし、最後のシャルル豪胆公は勇猛な野心家だった。領土拡張に邁進して、フランスとぶつかり、結局、志半ばで戦の露と消える。一人残された公女は、フランスの脅威を前に、ハプスブルク家当主マクシミリアン1世に頼るしかなくなり、二人の結婚によって、フランドル、ネーデルランドがハプスブルク家のものとなった。フランスはブルゴーニュだけを奪い返した。そして、ハプスブルク家はヨーロッパの過半を支配する大帝国となったのである。

 

 ディジョンの旧市街。ところどころに古い建物が残る。

 旧市街の中心、ブルゴーニュ公宮殿裏手にあるノートルダム大聖堂。この大聖堂の素晴らしさ、ユニークさは、正面に並ぶ魔よけの群れである。

 

 右塔に、子供連れのめずらしいからくり時計がある。いつの時代のものだろうか? 素朴さがまるでモダンアートのようである。下がその拡大写真。

  

 ノートルダムの他にもディジョンには重要な聖堂がある。左はサン・ミッシェル教会、右はサン・ベニーニュ大聖堂。この大聖堂に大司教座がおかれている。