ボーヌのホスピス(施療院) L'Hospice de Beaune  (2010年)

 ボーヌのホスピスは、建物の素晴らしさからも、設立の精神からも、中にある超一流の美術品からも、保存の状態からも、フランス第1級の国宝だと思う。

 ここに入院することは、今で言えば、おそらく宝くじで一等当選者になることくらい難しそうであるが、それでも、貧民のための、これほどの施設が、15世紀にあったという事実は、奇跡のようである。たとえ宗教的精神によるものであろうとなんであろうと、当時の人類のヒューマニズムが到達しえた最高のものが、ここに結晶している。

 上は患者のベッド。広々と空間を取って、治療をしやすくすると同時にプライバシーを大切にしている。ここは無料である。ここに入院できるのは、救済を必要とする貧者のみである。彼らにプライバシーが存在するなど、当時の多くの貴族・市民は考えなかった、もし考える人がいたとしたら、それは特別な知性と想像力と感性の持ち主である。そういう時代の施設なのである。

 患者は礼拝に集まるたびに、この時代最高の美術品を眺めていた。このステンドグラスほど美しく精巧な仕事を見る幸運にであうことは、きわめて稀だ。

 ボーヌのホスピスに来て、私が最も感動したのは、下のファン・デル・ウェイデンの祭壇画だった。実は私は中に入るまで、このような祭壇画がここにあることを知らなかった。見学の順序に従って、大広間から隣りの薄暗い特別室に入り、初めて祭壇画がそこにあるのを知り、近づいて絵を見て、驚き、また感動した。深く感動した。感動の余韻と記憶はその後も続いて、パリに戻ると、フランドル派の絵を見直すために改めてルーヴルに行き、その後訪ねたブリュッセルの王立美術館でも、ロンドンのナショナルギャラリーでも、ウィーンの美術史美術館でも、とくにフランドル派の絵に注意を払って見た。さらに、ファン・エイク兄弟の最高傑作とされる有名な祭壇画を見るためにガン(ゲント)にも出かけた。しかし、最初の出会いや発見というものは、特別な印象を刻むもののようで、どの絵を見ても、このファン・デル・ウェイデンの祭壇画ほど深く感動させられたものはなかった。

 

 ボーヌの市街。ボーヌの旧市街は城壁に囲まれている。中心となるのはホスピス(下左)だが、他にも美しい建物が散在している。

 

 ボーヌは、ブルゴーニュで生産されるワインの集散地として名高い。ホスピスの中庭で11月に開かれるオークションは、ワイン取引の中でも特に重要な売立会の一つらしく、とりわけホスピスのワイン、その名もそのまま「ホスピス・ドゥ・ボーヌ Hospice de Beaune」を求めて、世界中から商人が集まるという。同じブルゴーニュの「ロマネ・コンティ」ほどではないにしろ、これをフランス料理店で注文できる人は特別な人である。お金もステイタスも蘊蓄もなければ、ちと手が出せない。当然ミシュラン三ツ星クラスであろう。

 このワインの町ボーヌの特色どおり、ホスピスへ通じる通りには、何軒ものワイン商が並んでおり、梱包から輸送・配達の手配まですべて請け負ってくれる。日本人が多いのか、日本語による案内も見かけた。

 もう一つ、このメインストリートで目立ったのはお菓子屋である。小さな町にしては数が多いと感じた。また、見た目も洗練されていて、きっとうまいに違いないとにらんだ。

 しかしその日、お菓子に関心が移ったときには、これから駅まで歩いて電車に乗ろうとするところで、持ち運ぶ距離を考えるとあきらめるしかない、と通り過ぎようとした。すると、妻が、ゼリーを買おう、という。ゼリー?  ゼリーなんかうまいだろうか、と日本のゼリーをもとに疑問を呈したが、きっとうまい、という妻の推測にも、ボーヌだと根拠がありそうな気がして、主にゼリーを売る小さな店で、さまざまな種類のものを8個買った。それを帰途の電車の中で、紅茶を飲みながら、すべて半分ずつにして食べた。おいしかった。こんなにおいしいの、と、これもボーヌにおける驚きであり、発見だった。もっとたくさん買ってくればよかった、なんで8個しか買わなかったの、と互いを責めながら、このうまさを記憶に焼き付けた。そして、パリに戻り、うまいゼリーを探し求めてあちこち訪ね、その後ベルギーでもイタリアでも試し、約2カ月後の帰国間際、最後にパリのマドレーヌ寺院裏の、値段なら倍もする高級菓子店 F にも行ったが、ファン・デル・ウィイデン同様、やはりボーヌを越えるゼリーにはついに出会わなかった。それは残念ではあったが、ちょっと、うれしくもあった。

  この写真の、自動車が止まっている向かいあたりのお菓子屋がその店だったと思う。

   

  色は同じに見えても、種類はすべて違う。

 右の写真には7個しかないが、1個食べてから「うーん、写真撮らなくちゃ」と気付いたため。あちこち旅行していると、思いがけず遭遇したごく小さな幸せが、その町に強い印象を刻む。ゼリーのおいしいボーヌの町は、ホスピスの素晴らしさと相まって、われわれにとって「忘れえぬ町」である。帰途のローカル線の、ほとんど誰も乗っていない寒い車両の中で、顔が自然にほころんで、紅茶のおかげばかりでなく、暖かかった。

 ボーヌへはディジョンからローカル線(TER)で行く。ユーレイルパスを持っていても、一等はない。このTERには自転車が積めるよう、特別なフックが用意されている。ヨーロッパではよく自転車を積み込む光景がみられるが、新しい車両では、CO2削減という大きな目標の下に、それに対応すべく設備しているのだろう。