オンフルール (2005年)
セーヌ河口の小さな美しい港町オンフルールは、中世にさかのぼる歴史をもつ古い港町である。
だが、近代フランス絵画の愛好者には、若きモネが好んでカンバスを立て、また彼の師のブーダンやヨンキントが一緒にカンバスを並べた、いわば前印象派の町として知られている。旧市街には、その歴史を反映してか、小さな町に不釣合いなほど多くの画廊がある。また、旧市街の坂を上ると、大変つつましいたたずまいだが、モネを発見し、モネを育てたそのブーダンの美術館がある。
そして、もう一つ、ブールダン美術館の坂を海側に下ると、そこにはエリック・サティの生家がある。オンフルールには、パリとはまた別のもう少し健康的な19世紀後半のプチ・ブルジョワ文化の香りがどことなく漂っている。
港から、なだらかな丘の上の住宅街まで、古い町並みが続いている。
旧市街の中心、サント・カトリーヌ広場
ブーダン美術館を二・三十メートル上るとこの古い民家(上)があり、その向かいの階段を下りるとサティの生家がある。
この家が、サティの生家。記念館になっている。
上の写真はウージェーヌ・ブーダン美術館の入口に面した舗道。左奥に美術館の入り口がある。
パリのブーローニュの森の近くに、マルモッタン美術館という、かつて貴族の別邸であった小さな美術館がある。二十歳の頃(1974年)、ルーヴル別館近代美術館(1974年当時)で、たくさんのモネを見て以来、すっかりその魅力にあてられていた私は、入場料が半額となるある日曜日、地下鉄を乗り継いでそこを訪れた。ついでに、19世紀貴族の一大社交場であったブーローニュの森を見るという目的もあった。
マルモッタン美術館には、モネの作品が多数所蔵されており、「印象派」という流派名の起源となった有名な「日の出、印象」もそこにあった。そしてもう一つ、この美術館には他では容易に見られない少年時代にモネが描いた様々な戯画(カリカチュール)が展示してあった。それは、とても高校生が書いたとは思われない玄人はだしのもので、実際モネは、当時、故郷のルアーヴルでそれを売って小遣い稼ぎをしていたのである。町の画材屋が、彼の戯画を展示して売ってくれていた。
その画材屋で、モネはブーダンと出会った。ブーダンが店の奥にいる時に、偶然モネが来店したのだった。ブーダンは貧乏絵描きだったが、ボザール(国立芸大)で学び、しっかりとした技術も絵画観も持った篤実な人物で、モネの戯画をよく知っており、そこに天賦の才を見出していた。この才能を完成へと導きたい、そういう気持ちを抱いていたのかもしれない。ブーダンはモネを写生に誘った。しかし、モネのほうは及び腰だったらしい。彼は遊びで戯画を描いて小遣いが稼げるいまの状態に満足しており、まだ画家としの天命を自覚したこともなければ考えたこともなかった。だから、ブーダンの誘いをいつも口実を見つけて断っていた。だが、最後には彼の親切を無碍にできなくなり、とうとう写生に同行することになったらしい。
ブーダンはモネを連れて海に行った。イーゼルを立ててキャンバスに筆を入れ始めた。モネの運命が変わったのはその時である。17歳だった。後年、彼はこう述懐している。
「突然目の前から霧が晴れてゆくような出来事でした。私は絵画とは何であるのかを理解し、把握したのです。」
その後、ブーダンは画家仲間への紹介状を持たせてモネをパリにやる。モネは、1859年のサロン(官展)を初めて見、大家を知り、大家に反抗する者たちを知り、画塾でパリに集まる才能ある画家たちと知り合い、彼らとカフェに集まって議論をし、そして制作しながら、新しい絵画の源流を作ってゆくことになる。
モネは、ノルマンディーに戻ると、しばしばブーダンやヨンキントと一緒に写生をした。彼らから実に多くのことを学んだ。それは、ブーダンやヨンキントが描いたオンフルールと、モネが描いたオンフルールを比較すればよく分かる。われわれは、モネの存在があまりに大きいために、印象派は、モネの独創性によって、美術の歴史に忽然と現れたように思いがちだが、実は、先達がいて、彼を導いていたのである。しかし、それでも、彼が天才たる証拠は、水の描き方を見れば一目瞭然である。(一番下の絵) これほど易々とこれほど大胆に、水とそこに反射する光の本質的表現ができる画家は、やはりモネしかいない。ひとはけの、何気なく置かれたブルーグレーが、あるいは濃い焦茶色が、見事に生き物のように揺らめく水の動きを捉えている。しかも、この絵は、「印象派」を確立したといわれるあのルノワールと一緒に画架を立てた「グルヌイエール」に、3年先立っているのである。
ブーダンの描いたオンフルール(上)
ヨンキントが描いたオンフルール(中)
そして、1866年モネが描いたオンフルール(下)