クレルモン・フェランのノートルダム・ドゥ・ラソンプション大聖堂 Notre-Dame de l'Assomption de Clérmont-Ferrant (2010年)
クレルモン・フェランの歴史は非常に古く、紀元前のケルト人集落にまでさかのぼるらしいが、その長い歴史の中でもとりわか有名なのは、1095年十字軍の発進がここで(クレルモンで)決まったことであろう。上の写真の大聖堂広場に立つ像は、その十字軍の発進を説いたウルバヌス2世である。稀代の演説家だったにちがいない。王や貴族たちをまたたくまにエルサレムへの宗教的熱狂にかりたてたのだから。
クレルモン・フェランの旧市街
クレルモン・フェランは、クレルモン市とモンフェラン市が合併してできた都市である。市の合併と聞くと、われわれ日本人は、市町村が行政上の効率化や利便性を図って合併する、あの「平成の大合併」に代表されるような合併を連想すると思うが、クレルモンとモンフェランとの合併勅令が出されたのは、なんと1630年であるという。この命令は、まったく住民のためのものではない。フランス国王が自己の権力拡張のために、王領であるクレルモンに、そうではないモンフェランを有無をいわさず力を背景にくっつけて、自分のものにしようという意図によるもので、モンフェランの市民は当然反対だった。日本でいえば、それは江戸時代のことであり、幕府に逆らうことなどとうてい考えられないが、同じ封建体制下でもフランスにおいてはそうは行かなかった。モンフェランの住人は、そんな勝手なことは認められないと強く抵抗したのである。そのため、勅令は下ったものの合併は進まず、結局、その実現までには300年かかることになる。つまり、真の合併がなされたのは二十世紀に入ってから、となった。
ミシュランの人形
旧市街を歩いていたら、ある骨董屋のショーウィンドーでこんなものを発見した。その時、そうか、ここはミシュランの本社のあるところだ、と思い出した。これは市販されたものなのか、会社が宣伝用に配ったものなのか、いずれにせよミシュランの「タイヤ人間」は愛嬌があるし、企業マスコットとしての歴史もたぶん世界で一二を争うほど古いだろうし、コレクションしたくなる気持ちはよくわかる。
ウェルキンゲトリクスとパスカル
クレルモン・フェランにはウルバヌス2世のほかに、まだ二人、こちらは本当の「故郷の」有名人がいる。一人はケルトの英雄ウェルキンゲトリクス、もう一人は哲学者ブーレーズ・パスカルである。上の写真は、旧市街の歩道に埋め込まれていた二人の鉄製レリーフ板。あちこちに埋め込まれている。おそらく何かの順路を示しているのではないかと思うが、調べそこねた。
パスカルは日本でも有名だが、ウェルキンゲトリクスの方はあまり知られていないかもしれない。もっともフランスでも、彼が国民的英雄に育ったのは19世紀の国民国家思想が盛んになる頃である。ナポレオン3世が、プロシアへの対抗意識を盛り上げるためにウェルキンゲトリクスを利用した。皇帝は、『ガリア戦記』で有名な<アレシアの戦い>のアレジアAlésia(仏語では濁る)がどこにあったか調べさせ、そこに彼の大きなブロンズ像を建てさせている。結局、戦争ではあえなく負けてしまったが、この流れは、以後も太くはなっても細くなることはなかった。で、なぜウェルキンゲトリクスが担ぎ出されたのか、彼が、ガリア(フランス)を征服したローマのスーパーヒーロー・カエサルに一矢報いた男だからだ。初めて現フランス人の祖であるガリア人(フランスのケルト人)を団結させ、カエサルを危機におとしいれたのである。最終的には敗北したが、ガリア諸部族をまとめ上げた、というところが重要である。民族意識、国家意識の誕生、とも取れるからだ。同じような事例はイギリスにもある。ヴィクトリア橋のたもとに、ブリタニア(イギリス)のケルト人の英雄ボーディッカ女王の像がある。こちらはウェルキンゲトリクスより100年以上後(紀元1世紀中頃クラディウス帝の時代)になるが、同じようにスエトニウス率いるローマ帝国軍に一矢報いたイケニ族女王として、19世紀になって国民的英雄になった。国の抗争が軍人だけでなく国民全体を巻き込む時代になってくると、国民の精神を鼓舞するためにいろいろなものが引っ張り出される。ウェルキンゲトリクスもボーディッカ女王も、大昔の歴史的人物であるとともに、近代になって、政治が作り上げた英雄でもある。日本でも、たとえば楠正成が英雄になるのは、幕末から明治時代にかけてらしい。尊王思想のおかげであり、近代に入ってからは、天皇中心の強力な軍国国家体制を作り上げるために利用された。
ウェルキンゲトリクス ボーディッカ女王
ロンドンのビッグ・ベンと道路を挟んで向かい合うボーディッカ女王の像は、ケルトの服装ではなくギリシャ人のような装いなので、女神かなにかと誤解してしまう。