平和について考える

  

   終戦から今年で76年目を迎えます。戦争を実際に経験した世代のほとんどはこの世を去り、幼少年期に戦争を体験した世代も、年と共に急速に数を減じて、大部分の日本人が戦争を知りません。戦争は、遠い昔の、現代人には無縁の話になりつつあります。

  1941年日本が太平洋戦争に突入した当時、日本の人口は約7千2百万人でした。そのうちの310万人が戦争で亡くなりました。

  いま私たちは平和のうちに暮らしています。社会が成熟し、一人の人間の命が大変重い時代に生きています。しかし、戦時中、同じ人の命がいかに軽かったか、当時の大量死に関するさまざまな事実を知ると衝撃を受けるほどです。

  この戦争に、日本はどうして突入していったのか、国力に数十倍もの差がある国と戦うことは狂気の沙汰であると国家のリーダーたちの多くが分かっていながら、それでもなぜその相手と戦争したのか、また、奇跡のような勝利に賭けたことが案の定愚かだったことが明らかとなり、負け戦の様相になると、こんどは「一億総玉砕」という、いわば国家・国民の自殺しか唱えなくなるのはなぜなのか、当時、今から思うと常軌を逸しているとしか思えない数々の精神の動きがありました。

  それはあくまで「遠い昔の、現代人には無縁の話にすぎないのでしょうか。

  戦前、日本が戦争に突き進む背景には社会の格差がありました。普通に生きることが困難なほどの貧困が、ことに農村を中心に、社会の下層に広がっていました。過酷な生存条件の広がりは、過激な改革や社会変革を希求させます。5・15事件も2・26事件も、また数々の政治家の暗殺事件も、社会を変えることが正義と確信した人々によって起こされました。今、社会には格差が広がっています。戦前の悪夢は二度と来ない、と言い切れるのか、誰にもわかりません。

  平和は、常に、平和を守る戦い、を必要としています。静かで心を熱狂させることのない、地道な、華やかさも興奮もない、が、鋭敏な感性と深い思慮がなければならない、そういう戦いを日々必要としています。平和は、知らぬ間に破壊が進んで、多くの人々が危険を感じたときには、もはや後戻りできない取り返しのつかない状態になっている、そのことはこれまでの幾多の歴史が証明しています。310万人の死を無駄にしないためにも、われわれは平和の意味を知り、平和の敵を知り、平和の敵と戦い、平和を守る、そのために、まず平和について、さまざまな歴史の事実から考えてみたいと思います。