ルーアンのヴュー・マルシェ(旧市場)  Vieux-Marché de Rouen   (2010年)

 ルーアンといえば、フランス人は、まずジャンヌ・ダルクを想起するだろう。ヴュー・マルシェは、そのジャンヌ・ダルクが処刑された場所である。火刑台跡には現代的デザインの教会が建てられている。(下の写真)

 ルーアンはノルマンディー公国の都だった。そのノルマンディー公国は、デーンヴァイキングの首領だったロロに、西フランク国王ジャンが、セーヌ河口の地を与えたことによって生まれた国である(911年)。セーヌ河の下流域は、彼らヴァイキングのフランスにおける侵略・略奪の前進基地であり、そこを根拠地に北フランス沿岸やセーヌ河河岸、また遡ってパリまで荒らし回っていた。したがって、ジャンは、盗賊が居座っている一帯の土地をくれてやって、彼らを家来にすることで、この災厄から逃れようとした、といいうる。

 ところが、この盗賊たちの歴史はこれでめでたし、完、とはならない。こんどはロロの7代あとの子孫ギョーム(英名ウィリアム)が、イギリスに進出してヘースティングスの戦いで勝利し、イギリス国王となる。つまり、この時、フランス国王の臣下がイギリス国王となり、しかもイギリスとノルマンディー公国を合わせた広大な地を治める身分になった。その所領はフランス国王が治める領地よりはるかに大きい。

 さらにおもしろいことに、ギョームは、イギリス国王となった時、フランス語を母語としていた。そのため、イギリスの公式言語がフランス語になり、やがて、英語は、当然、被支配者階級言語であるから、こうして侵入してきたフランス語を受け入れることになり、語彙が膨れ上がる。現在の英語のうち、約3万語はフランス語起源と言われている。一般に大学で使用するフランス語中辞典の語数は3万4千語から3万9千語であるから、当時の主要フランス語のほとんどが英語になっているわけである。

 イギリス国王となったギョームは、しかしながら、生涯の大半をフランスにいてイギリスにいなかった。あくまで、フランスが主で、イギリスは単なる征服地たる「島」だったのである。いうなれば、イギリスはフランスの一部になったようなものである。だが、その後、このヴァイキングの末裔たちは、イギリスの豊かさを知って根拠地を移し、さらに、主に婚姻政策で抜群の腕を発揮して、ノルマンディー、メーヌ、アンジューのほか、一時期アキテーヌ(ボルドー一帯)もブルターニュもイギリスのものにしてしまう。最盛期、フランスの約半分がイギリスのものになったのである。要するに、むかし、今のイギリスはフランスだったことがあり、今のフランスのかなりの地域はイギリスだったことがある、ということになる。

 

 上はコロンバージュ colombage と呼ばれるノルマンディーの特色である木骨組を出した家屋建築。下はルーアンの旧市街を象徴する大時計。

  ルーアンはまたモネの『ルーアン大聖堂の連作』で有名である。私が訪れた時、大聖堂は修復の真っ最中で、モネの描いた正面にはやぐらが組まれていて写真を撮ることができなかった。そこで正面上部と側面と背面を写した。

  

 モネは『連作』を大聖堂正面入口に向かい合う洋服店の一角を借りて描いた。右下の建物がそれで、二階の左の窓のあたりにイーゼルを立てたらしい。現在この店舗は市の観光案内所(インフォメーション)になっており、誰でも入ることができる。